第2幕
第1場 現代。衆議院議員会館、万里小路 朝雅事務所で万里小路がお茶を飲んでいる。
御子左登場。
御子左 おはようさん、・・・・って誰も来ていないじゃないか。
万里小路 見ての通りだ。皇室に興味がないのか、日本史に興味がないのか、その両方か。
御子左 俺たち二人だけで、やるか?
万里小路 歴史を知るという事は自分自身を知るという事なんだがなあ。
御子左 それもそうだし、歴史や古典に親しむというのは単なる趣味の問題じゃなくて、過去の人との対話、過去の人たちの仲間に加わることだよな、兼好法師が書いたように。それに加われないというのは寂しいことだと思うが気にしないのかな。国宝や重要文化財の価値も分からんだろうし。
万里小路 うちの爺さんが生前、歴史や古典というものに関心を持たない人は、老境に入ってから自分が根無し草であることを自覚して言い知れぬ不安に襲われると言っていたが、後年泣きを見ないといいがな・・・・
御子左 よし、まずは叩き台としてこの辺から行ってみるか。
御子左、一冊の本を開く。
(narration)怨霊信仰と皇室−−−天皇の起こり−−−
古代、日本に限らず世界の様々な地域で様々な災厄、疫病や天災などは怨霊の祟りとされた。そしてそれを鎮める、さらにもっと先行して未然に防ぐために、祭祀が行われる。日本では先に書いた通り、祭祀を行う王の誕生とその死について皆既日食がその契機となった。記録に残る最初の祭祀王は『後漢書』の東夷列伝に現れる卑弥呼である。卑弥呼は倭という連邦国家のいわば首都にあたる邪馬台(ヤマダもしくはヤマデ、あるいはヤマト)国の王として現在の日本列島の何処かに、後の列島の統一国家の母体となる王国を築くが、その過程でもう一つの大国、大国主命率いる国を滅ぼした。そしてその怨霊を祭るために出雲大社を築造した(雲という字は黄泉の国、死の象徴であり、太陽(天)を隠すものである。雲隠れの語源)。『風土記』において出雲国の編纂者のみが中央からの国司でなく出雲大社の神官たる出雲国造であることや、神亀三年の出雲国造神賀詞奏上なども、出雲国に特別な地位が与えられている証拠である。
万里小路 この説には一つ間違いがあるな。出雲大社は、あれ監獄だから。
御子左 そうなのか?
万里小路 そうだ。本当にオオクニヌシを祀るための神社は奈良の大神神社の方だ。
御子左 どういう事だ?
万里小路 とりあえず出雲大社を建ててオオクニヌシを封じ込めたはいいが、崇神天皇の世に疫病が流行した。その原因がオオクニヌシ、いやオオモノヌシというべきか、それにあるという事で大神神社を建てて丁重に祀った。最古の神社で、日本における怨霊信仰の原点だな。日本でカミといえば、それは福と災いの両方をもたらすものだ。そのままだと祟ってしまうから、祀ることで福の部分だけいただこうって発想だな。だから俺はGodを神と訳すのは間違いだと思っている。まあ他に適当な訳語がないから仕方ないとは思うがな。そういう意味では天皇をEmperorと英訳してしまうのも駄目だ。天皇は祭祀王であって、皇帝ではない。政治権力を持っていたのもせいぜい平安時代までだけだしな。天皇はTennoで良いだろう。
御子左 さて、日本史の始まりと言えば卑弥呼だな。
万里小路 今なんて言った?
御子左 いやだから、「ひみこ」だと。
万里小路 その読み方は新井白石の説だが、俺は間違いだと思う。正しくは「ひめこ」だろう。まあそれについてはおいおい説明していくとしよう。
御子左 ともかく、その卑弥呼が登場する契機は・・・・
万里小路 桓帝と霊帝の間というから、二世紀半ばごろだな。日本列島では大乱が起こっていた。ちょうどその時期、西暦158年7月13日に日本列島で皆既日食が観測される。この時に卑弥呼が現れ、彼女を諸国の共通の王として立て、ようやく乱は治まった。
御子左 失われそうだった太陽を卑弥呼の鬼道によって取り戻したという事か。
万里小路 この卑弥呼だが、神武天皇他初期の天皇の実在を信じている人、信じさせたい人からすれば極めて都合が悪い存在だ。卑弥呼の存在、いやもっと正確に言うなら卑弥呼周辺について記した『後漢書』及び『魏書』の存在によって、神武天皇他初期の天皇の実在が否定されている。そういう意味では奴国王もそうだがな。
御子左 どういう事だ?
万里小路 『後漢書』によると、まず、卑弥呼の登場以前、日本列島では大乱が起こっていた。つまり、天皇や大王にあたる統一された君主が存在していなかった。これだけでもう2世紀には天皇がいなかった時代があったことが分かる。
御子左 ほう・・・・
万里小路 そして卑弥呼が現れるわけだが、ここでも卑弥呼や他の王について書かれてはいても、天皇については一言も触れていない。やはり、天皇にあたる存在がいなかったことが分かる。
御子左 そうか、そういえばそうだ。
万里小路 そして、ある意味決定的な事だが、卑弥呼の存在は、記紀のどこを見ても書かれていない。つまり、記紀だけを参照していては、卑弥呼が存在していたことにすら気付けない。
御子左 あれ、神功皇后の巻はどうなんだ?
万里小路 よく見てみろ、卑弥呼とは書いてない。単に倭の女王と書いてあるだけだ。
御子左 なぜ、そんな事になっているのか・・・
万里小路 記紀の史料としての問題点は後でも触れると思うが、一つには「都合が悪いことは書かない、書けない」という姿勢にある。卑弥呼が存在したことを書けば、せっかく構築した神話が崩れてしまう。だから、そんなものはいなかったことにしてあるわけだ。『日本書紀』の記述の一面性は、『源氏物語』にすら書かれている。
御子左 やっぱり、多くの史料を参照するってのは大事だなあ。
万里小路 ただでさえ古代は史料が少ないのに、その中でさらに選り好みなんかしていたら、研究は進まんよ。次に『魏書』だが、この中の年代を疑う必要はほぼないだろう。中華帝国が倭に遠慮して事実を偽る必要はどこにもない。西暦239年に卑弥呼が魏に遣使したのは歴史的事実といっていい。
御子左 しかし、『魏書』の中の扱いの少なさといったらないよなあ。『三國志』全体で見たら本当に塵芥みたいなもんだ。
万里小路 そりゃそうだろ。当時の倭なんて、魏から見たら周辺の未開国の中の一つにすぎなかったし、そもそも接触自体殆どなかったから書きようがない。でも、たったこれだけの史料によって、我々は紀元前660年から天皇によって統治されていたという皇国史観が誤りであることを確認できる。もしこの史料がなかったら、我々は今でも記紀に書かれてあることが正しいと思い込んでいたかもしれないぞ。
御子左 そうだなあ・・・・卑弥呼治める倭と魏の関係は何だったんだろう。
万里小路 卑弥呼が魏に使いを送ったのは、魏が公孫淵の反乱を鎮圧した時期に当たる。つまり、倭は魏と公孫淵の争いを注視していて、もし公孫淵が独立国の建設に成功したら、そちらに使者を送るつもりだっただろう。実際は魏が鎮圧に成功し、卑弥呼は魏につくことを決めたってわけだ。
御子左 で、双方の思惑が一致したというわけか。疲弊した魏は朝貢を受け入れて、我々に味方する倭の国の王という称号を与えて後顧の憂いなく呉や蜀に当たることができるし、倭からすればもしかしたら起こるかもしれなかった魏の侵攻を未然に防いで、国の安泰を図ることができた。
万里小路 活発に国交を展開しているわけではない国にわざわざ使者を出すというのは、それ相応の理由があるからな。
御子左 乱の再発を防ぐという意味でも、魏には倭からの使者を追い返すなどという選択肢はなかったんだろうな。仮に第二の公孫淵が出現したとしても、倭と挟撃するという策も考えられるしな。
万里小路 今の政府、特に昨年からの外務大臣は壊滅的に外交の才能がないが、古代は違っていた。危機的な状況に陥る前にきちんとそれ相応の対応をしていたんだ。
御子左 今の我々は古代人に劣る、か?くうっ。
万里小路 さて、卑弥呼は言うまでもなく、太陽に仕える巫女として列島諸国をまとめる王となった。太陽あってこその立場だったわけだ。
御子左 つまり、また皆既日食のようなことが起これば、その立場も危ういと・・・・?
万里小路 そうだ。そして、西暦248年9月5日にそれは起こった。そして、おそらくそれによって卑弥呼の軍は動揺し、狗奴国との戦争に負けた。その結果、「力を失った王は取り換えなければならない」という原理によって卑弥呼は殺された。
御子左 本当にそんなことが・・・・?
万里小路 太陽神なのに、太陽が無くなってしまってはそれはもう致命的だろう。まして戦争で取り繕いようのない大敗北を喫してしまったとなれば、「もうチカラがなくなってしまったんだ」ととられなければおかしい。
御子左 ・・・・ちょっと待て。その二つの皆既日食の間は90年もあるぞ。仮に最初の日食の時に卑弥呼が10歳だとして、死んだときは100歳だ。いくら何でもそりゃないだろう。
万里小路 だから、その最初と次の日食の時の卑弥呼は同一人物じゃないんだって。大体、その卑弥呼というのは個人名じゃなくて祭祀王の称号だし、・・・つうか君さあ、日本に限らず古代の社会では本名を呼ぶことは禁忌だったって、知ってるだろう?現代でもパラオなんかにはその風習は残っているじゃないか。
御子左 それに、もしその最初の皆既日食の時に初代の卑弥呼が誕生したとすると、神武天皇はその後に来るという事だよな?いたとしたらの話だが。記紀の記述とは約800年もズレがあるぞ。
万里小路 まず、『古事記』と『日本書紀』に付随する史料としての致命的な問題点がある。それは「自分たちの歴史を自分たちで書いてしまっている」という事だ。断代史のように第三者の視点で書くと言った、公平性を確保する要素がない。という事は、書こうと思えば自分たちの都合の良いように幾らでも書けるという事だ。当然これはさっき言った、「都合が悪いことは書かない、書けない」という姿勢に容易に結びつく。探せばそういう例は沢山出てくるが、例えば第1回遣唐使が帰朝した時の高表仁の件なんか分かりやすいだろ?だから事実がそのまま書かれているわけではないということは念頭に置いて読むべきだ。記紀相互の矛盾はもちろんのこと、吉野を脱出して挙兵したときの記述に既に矛盾が見られるし、天孫降臨の件によく現れているように、正当化のための操作の跡が其処彼処に残っている。あれ、変だと思わないか?なぜ天子じゃなくて天孫なのか。
御子左 そういえばそうだな・・・・
万里小路 まあいい。その件についてはそのうち話すこともあるだろう。記紀の記述の信頼性は編纂時期にも表れている。天武・持統朝に始められた他の事業、飛鳥浄御原令の編纂や藤原京や薬師寺の造営はその時代にきっちり完了させている。ところが、記紀の編纂だけは遅れに遅れて、本格的に始まったのは元明天皇の時代だ。これは、つまり「時代の記憶」を保持している人が多く生き残っていた時期には書けなかったことを示唆している。その人たちが世を去り、いわば「ほとぼりが冷める」のを待って開始されたということだ。
御子左 死人に口なし、か?ひどい話だな。そんなものが「正史」かよ。
万里小路 大友皇子が即位したかどうかが明記されていないのも、天武系の正当化を目的としているなら理解できる。既に即位を済ませた天皇と戦ったとなれば、それは即ち叛乱軍となったという事だ。いわば簒奪者であったという事を認める事になり、当然そんな事は書けないからな。
御子左 大友皇子といえば、昭和天皇の滋賀県行幸の際、天皇の希望でわざわざ予定になかった弘文天皇陵を参拝しているな。
万里小路 皇室には我々が知らない実情が伝わっていてもおかしくない。昭和天皇はそれを知っており、それがこの参拝に繋がった可能性は十分にある。神武天皇の即位年についても、当時の最先端の学問たる讖緯説の辛酉の年に当たるってだけ、事実ではなくて願望だからな。そういう意味では日本書紀にある他の用語だってそうだ。本来は日本に存在しなかったであろう皇太子という概念を、律令制とともに隋唐帝国から入ってきたと思われる儒教思想に合わせて過去に遡って採用しているとか、まだ日本という国号がなかった時代に、「任那日本府」などという行政府があったように書くとか。儒教思想の悪影響は他にもあって、群臣の推戴によって決まっていた天皇の即位に父権制を当てはめて、日本は父権制社会だったなんて言う学説が肯定されていた時代もあった。
御子左 まあでもかつてはそれが定説だったんだからなあ。定説と言う言葉ほどいい加減な言葉もないかもな。
万里小路 今では信じられないほど奇怪な説が以前は定説だったことも珍しくないからな、称徳道鏡愛人説とか。一応歴史学者として身を立てている人がその説を言い出した時は、ああこの人の将来は絶望的だと思ったよ。
御子左 それ、後世の創作だよな?そいつ、本当に歴史学者なのか?そのうちこの世から存在を抹消されるぞ。まあいいや、結局神武天皇は、実在しなかったという事でいいのか?
万里小路 基本卑弥呼以前の天皇は、その存在に疑問符が付くのは間違いない。もしいたとしたら、何故卑弥呼の時代に天皇がいなかったのかという重大な疑問が出る。この時代に天皇の系譜が断絶していたことを示すわけだからな。歴代の天皇陵を発掘調査したら面白いだろうな。特に初期の天皇陵の多くは何もない、ただの丘だろう。あるいは今まで知られていなかった豪族の墓だったなんてことが判明すればさらに面白い。
御子左 あと、神武とか天武とかの漢風諡号は、もともと『日本書紀』にはなかったんだよな、確か。
万里小路 そう、後になって淡海御船が作ったとされているがこれは別人の可能性が高い。自分の曽祖父に当たる天智天皇の諡号を殷の紂王になぞらえるなど常識で考えてありえない。ともかく、籍田や親蚕などとともに、当時推し進められた唐風化の一環だろうな。
御子左 なぜそんなに、言ってみれば唐かぶれになったんだ?
万里小路 大内裏を守る門の名前が、もともとは大伴氏をはじめとした軍事氏族だったことは象徴的だ。それが唐風に改められたわけだが、つまりこの時代、旧来の豪族の地位が相対的に低下し、代わって天皇の自律性が高まったとみることができる。唐風化とはそれが現象したものだと言える。
御子左 宮城十二門の名称にかつては軍事氏族の名前が付けられていたというのは、例の言霊信仰によるものだな。そうすれば宮城を守ることになる、守られていることになる、と。それがなくなったのは、もはやそれらに頼る必要がないという事か。
万里小路 あるいは頼れなくなった、というところだな。
御子左 とにかく、記紀は事実と違う記述が多いから、他の史料と突き合わせて矛盾がないかどうか確認する必要があるという事だな。
万里小路 そう。考古学的遺物や海外の史料も使って事実を確定していかなければならない。例えば実在したかどうか疑わしい初期の天皇の中でも、崇神天皇は実在したことが確実だ。何といっても記紀の記述に対応する物証が存在することが大きい。ついでに言えば、崇神天皇が事実上初代の天皇と考えて良い。称号が神武天皇と同じハツクニシラスだからな。神武天皇は名目上初代だから当然として、それと同じ称号が与えられているのが見逃せない点だ。
御子左 それにしても、結局耶馬台国の場所ってどこだったんだろうな。
万里小路 一つの有力な史料が九州にある。
御子左 それは?
万里小路 今の皇室にとって、ある意味伊勢神宮より大事な宇佐八幡宮が九州にある。
御子左 和気清麻呂が神託を受けに行ったところだな。
万里小路 なぜそこまで和気清麻呂を派遣したと思う?もっと近くに伊勢神宮があるにもかかわらずだ。
御子左 なぜだろう・・・・?
万里小路 今の皇室の祖先、もっとはっきり言うと開祖が其処に祀られているからだ。皇位継承の則を変える重大事に関して、開祖に伺いを立てることが必要だったんだ。
御子左 なるほど、だから遠く九州にまで使者を派遣しなければならなかったのか。
万里小路 しかもそこに祀られているのが応神天皇、比売大神、神功皇后だ。
御子左 ん?それは?
万里小路 祀られるという事は、初代もしくは重大な画期となったという事だ。それがこの三人だ。比売大神とは卑弥呼の事と考えて外れないだろう。さっき「ひみこ」ではなく「ひめこ」と読むべきだと言ったのはそういう事だ。
御子左 比売大神はそれで良いとして、応神天皇と神功皇后の意味は・・・・?
万里小路 この二人が、いわば新王朝を開いたという事だ。
御子左 そうなのか?
万里小路 なぜ、「神功皇后」だと思う?漢風諡号に「神」の字を使っているのは、王朝の始祖とされる天皇だけだ。さらに、『日本書紀』で独立の伝記を割り当てられている皇后は彼女一人だけだ。天皇と同格の扱いを受けている。
御子左 じゃあ、神功皇后が事実上最初の女帝だったのか?
万里小路 神功皇后が実質天皇だったことは、『風土記』他当時の史料に「天皇」と記載されていることからわかる。しかも、当の『日本書紀』の中で、最初は天皇と書かれてあったのを皇后に直したつもりだったんだろうが、1箇所直っておらず「天皇」と書かれてある。
御子左 ああ・・・・・。やっちまったな。こういう文書改竄って、完璧にやろうとすると意外と難しいからな。どこか必ず抜けが出る。
万里小路 北畠親房も、神功皇后を天皇として扱っている。また『新唐書』の日本伝でも、仲哀の死後に神功を以て王と為すと書かれている。それに、さっき見た『日本書紀』の神功皇后の巻、「魏書によれば」という但し書き付きだが、倭の女王とはっきり書いてあったな。普通に読めばそれは神功皇后の事だ。
御子左 では、これはどう理解したらいいんだろう。
万里小路 仲哀天皇と応神天皇の間に、70年もの不自然な空位期間がある。この間、神功皇后が摂政をしたことになっているが、どう考えても有り得ない。実際には、この期間のどこかで神功「天皇」による新王朝が始まったとみるべきだと思う。
御子左 じゃあ、天皇の系譜は仲哀天皇で一旦切れるという事か、本当なら。
万里小路 記紀においては至る所で系譜の改竄の疑いがあるが、これもその一つだ。万世一系の建前上、仲哀天皇で途切れて応神天皇、いやもっとはっきり言うと神功皇后から新王朝が始まったとは絶対に言えない。だから神功「皇后」は仲哀天皇の皇后という事にしなければならなかった。
御子左 神功皇后が事実上、今上陛下にまで連なる天皇の系譜の初代という事か・・・・。今の日本には王朝名はついていないが、もしつけるとしたら「神功朝日本国」か。
万里小路 そう言って良いかもな。俺はもう、この宇佐八幡宮の存在が決定的だと思う。そして、神武から仲哀天皇までの内の大半の天皇は実在しなかった、もしくは実在はしていても日本列島を支配するような大きな力は持っていなかったと考えて良いと思う。
万里小路 ところでこの神功皇后だが、台与に比定する説もある。
御子左 台与って、卑弥呼の後に女王となったあの台与か?
万里小路 そうだ。年代的には確かに、そうであってもおかしくない。先に見た『日本書紀』の神功皇后の巻の終わり近く、「起居注」によれば、西暦266年10月に、倭の女王が使いをよこしてきたとある。
御子左 とにかく、邪馬台国は九州にあった、と。そう考えて良いわけだ。
万里小路 違う。
御子左 はあ!?
万里小路 『魏書』の中の邪馬台国までの道程の記述をもう一回確認してみよう。ここで一つ注目すべきなのは、距離の単位を二種類使っているという事だ。
『隋書』倭国伝には「夷人は里数を知らず、但だ計るに日を以ってす」という記述がある。倭人は里という単位を知らないので、距離を計るのに日数で計っているという事だが、帯方郡から不弥国までは里で表記されている。ところが、次の投馬国からは日数で表記されている。おそらく、不弥国までは帯方郡の役人も実際に足を運んだのだろう。そこから先は倭人からの伝聞で書いていると考えられる。
御子左 まあ、そういう考えもあるな。
万里小路 それはともかく、その先だが、不弥国から南に水行二十日で投馬国。そこから水行十日、陸行一月で邪馬台国だ。
御子左 それでは、昔から言われている通り九州のはるか南の海上に抜けてしまうじゃないか。
万里小路 だから、その南の海上には何がある、と聞いている。
御子左 ・・・・何もないが。
万里小路 あるだろ、何言ってんだ。奄美大島だよ。
御子左 奄美大島?!
万里小路 そうだ。邪馬台国とは、奄美大島にある海上貿易国家だった。それも、下手をすれば殷の時代から存在していた国家だった。ところが中国大陸が春秋戦国時代に入り、貿易立国だった邪馬台国はそのあおりを受けて衰亡した。三国時代には邪馬台国は既に形骸化した存在で、江南から北九州に入った呪術者が卑弥呼の称号を引き継いだ。『魏書』でも、この時点ではもはや邪馬台国という名称は使っておらず、単に倭の女王卑弥呼としか書いていない。同じ卑弥呼という称号を使ってはいるが、奄美大島の卑弥呼と北九州の卑弥呼とは全く別の一族だったという事だ。今まではそれを同一視してしまっていた、という事だ。
御子左 ・・・おいおい、なんか随分と都合が良すぎる話じゃないか?
万里小路 証拠を出せ、と言うんだろう?あるぞ。福岡県にある平原古墳だ。ここから江南の呪術者が使う内行花文鏡が4枚出土している。しかも、副葬品として玉と太刀も見つかっている。まさに三種の神器の原型で、少なくとも王または女王クラスの墓であることは確実だ。卑弥呼の墓としては極めて有力で、逆にそれ以外の人物の墓だとするなら、出土品の意味が分からなくなる。
御子左 なるほど、物的証拠があるならまあわかる。
万里小路 そして、邪馬台国が滅んだ後もヤマトという言葉は謂わば国の本源を表す言葉として残り、それが北九州や今の奈良県付近に地名として定着した可能性がある。ちょうどカラという言葉が元は朝鮮半島南部にあった小国家群を表す言葉だったが、それが中華帝国に敷衍され、やがて外国全般を表す言葉となったように。
御子左 しかし、それにしたって、・・・・奄美大島の国が倭を代表する国になるのか?どうにも腑に落ちないが、・・・・まあ今後の研究を俟つしかないか。
万里小路 さらにさらに、この他にも言いたいことはあるが、本筋から外れるので今はここまでにしておこう。まったく、歴史は小説よりも奇なり、だ。
万里小路 欽明天皇の時代に「任那」と言わば自称していた伽耶、加羅の地を新羅に奪われた結果、崇峻天皇の時代から遺言に従って新羅遠征の軍を起こしたわけだが、朝鮮への侵攻直前に天皇が暗殺されたり司令官自身やその妻が病死したりして、結局朝鮮への出兵は果していない。
御子左 それって自称していただけだろう?そこまでこだわる必要はなかったんじゃないのか。
万里小路 後で説明すると思うが、実は天皇の祖先にあたる一族がその地に住んでいたとも謂われている。
第2場 西暦591年。朝廷。
泊瀬部大王(崇峻天皇) 先の大王の遺言に従い、「任那」を復興する。
蘇我馬子 ・・・・復興、で、ございますか・・・・
泊瀬部大王 兵二万を筑紫に駐屯させる。紀男麻呂よ、お前を大将軍に任ずる。そして、新羅と任那に使者を送って「任那の事」を問い質せ。その返答如何によっては汝らの国に兵を送るとな。
第3場 現代。
236頁〜参照。
御子左 ざっくり言って、欽明天皇から桓武天皇までの時代が、皇室ゆかりの地を取り戻そうと動いた期間、か。
万里小路 その間、朝鮮半島への侵攻計画が出る度に、実行直前になって司令官自身やその妻が病死したりして潰されるということが繰り返された。しかも、それは大きな政変と必ず関係している。殆ど例のない重祚の原因にもなった。
御子左 それにしても、なんとまあ都合良く・・・・。
万里小路 それなんだが、これ、偶然にしては出来すぎていると思わないか?まるでどこかの大統領とか首相の「筋書きがある暗殺劇」のように。ついでに言えば、源実朝もそうだな。
御子左 崇峻天皇を暗殺したのは蘇我氏の手兵の東漢直駒だが、言うまでもなく彼は実行犯で黒幕は蘇我馬子だよな。まさか蘇我氏にとっては朝鮮半島側の領土を回復することで何か都合が悪いことがあったのか?
万里小路 いや、それは穿ち過ぎだ。その暗殺の後も駅使が駐屯地に派遣されて「内乱によって外事を怠るなかれ」と注意している。それに、崇峻天皇は蘇我氏の血を引いている。馬子が専横状態を築き上げていたことを快く思わない崇峻天皇が馬子に個人的に「排除」されたという事だろう。
御子左 ともかく、蘇我氏系の成年男子の皇位継承者がいない状況で崇峻天皇を殺害したために継体天皇以来再び皇統断絶の危機が訪れたわけか。
万里小路 そこで、現在のところ史上初めての女帝という事になっている推古天皇の即位に繋がるわけだ。推古天皇が皇統断絶の危機を救ったという事だな。
御子左 押坂彦人大兄皇子はどうだったんだ?この時唯一の成年男子の皇族だったんだろう。
万里小路 そこは推測だが、蘇我氏が実権を持っていたという事が大きいだろう。彦人大兄が皇位についてしまうと実権が蘇我氏以外の氏に行ってしまう危険があった。厩戸皇子を太子にしたのもまさに「彦人大兄外し」だからな。もう一つの可能性は、実はまだ成年に達していなかったというもの。この時代、天皇が実権を持っていた時代だ。言い換えれば、天皇が権力を行使するだけの能力を持ち合わせていなければ困るという事だ。このため少なくとも三十代でなければ王位を任せられないという事情があった。それ以下では成年とは認められなかったということさ。但し、この説には一つ難点がある。だったらなぜ「大兄」という称号がついているのかという事だ。
御子左 平安時代のように、藤原氏にすべて任せるというわけにはいかなかったと。
万里小路 そうだ。9歳の天皇なんて、お飾りでしかないだろう。
御子左 しかし、聖徳太子でも駄目か。確かにこの時まだ二十歳ぐらいだったが、実力は申し分なかったと思うが。
万里小路 やはり、年齢イコール経験だろうな。それでも摂政にはなったんだから、認められてはいたとみるべきだ。
第4場 西暦595年。朝廷。
蘇我馬子 ・・・・新羅は隋から「上開府楽浪郡公」に封ぜられたとのこと。
厩戸皇子 それでは、新羅を攻めることは・・・・
蘇我馬子 不可能だ。そんなことをすれば隋に歯向かう事になる。これは我が国の存亡にかかわる。
炊屋姫大王(推古天皇) ・・・・それでは、筑紫の兵は引くしかありませんね。
厩戸皇子 我が国も対抗策を考えなければ・・・・
(一同、退出)
第5場 西暦598年。朝廷。
大夫 大王、大変です!
炊屋姫大王 一体何事ですか、そんなに慌てて?
大夫 百済からの密使の報告によりますと、高句麗が隋に攻め込んだとのことです。この攻撃により隋は大損害を受けたとのこと。
炊屋姫大王 ・・・・分かりました。急いで摂政他臣たちを集めなさい。
恵慈、厩戸皇子、蘇我馬子登場。
炊屋姫大王 ・・・・という事ですが、恵慈。高句麗では一体何が起こっているか、分かりますか?
恵慈 私が高句麗にいた頃、隣国の新羅が強大化してきたので警戒しておりました。今また隋が大陸を統一して、高句麗は二つの強大な国に挟まれる状況となりました。そこで先手を打ったという風に解釈しておりますが、これはあくまで私の推測です。本当のところは分かりません。
炊屋姫大王 そうか・・・・。お主にも分らぬなら、これ以上はどうしようもないな。
蘇我馬子 で、我が国はどうすべきかな?
厩戸皇子 とにかく、もっと詳しくかつ正確な情報が欲しい。密使の情報だけでは足りぬ。
恵慈 隋に対し使いを送りましょう。そして彼の国を実際に見てこさせるのです。
第5場 西暦600年。隋の朝廷。
文帝 お前たちの国はどんな様子だ。
遣隋使 我が国の王は天を兄とし、日を弟としています。夜明け前に政治を執り、日が昇ってくると、後は弟に任せると言って政治を執るのをやめます。
文帝その他諸臣 ・・・・はあ?
文帝 天や日が兄弟だとか、昼夜逆転したような生活だとか、全く蛮族というものは・・・・。帰ったらお前たちの王に伝えよ、そのような野蛮な慣習は改めよと。
遣隋使1 裏目に出てしまったか。
遣隋使2 天子に対抗するには同じ天との関係を語れば上手く行くと思ったんだがな。
遣隋使3 誇るべき我が国の文化と思っていたが、蛮族扱いされるとは・・・
第6場 朝廷。
臣 遣隋使が戻って参りました。
蘇我馬子 おお、待ちかねたぞ。早速こちらへ通せ。大王と摂政、それに臣たちもお呼びしろ。
遣隋使、炊屋姫大王、厩戸皇子、恵慈、小野妹子登場。
蘇我馬子 で、どうであった、隋の様子は。
遣隋使 隋は今高句麗討伐の準備で忙しく、とても我が国に関わっている余裕はありません。こちらで何か事が起こっても対応は難しいでしょう。
蘇我馬子 なるほど、隋はそういう状態なわけだな。では我が国はどうすべきか。
恵慈 ・・・・大王、これはもしかしたら、千載一遇の機会かもしれませんな。
炊屋姫大王 どういう事ですか?
恵慈 隋に対し「攻勢」に出る機会という事です。
炊屋姫大王 隋を攻めよと申されるのですか、そなたは?
恵慈 そうは申しておりません。外交手段を用いて隋に圧力をかけるのです。そうすれば高句麗を攻めることを思い止まるかもしれず、結果として高句麗に恩を売ることができる。我が国の立場も強化することができる。一挙両得の結果を得られます。
炊屋姫大王 そうか・・・・
恵慈 悩んでいる暇はありません。今しかありませんぞ。
炊屋姫大王 ・・・・・そうですね。今しかないでしょう。
恵慈 では・・・・・・・
炊屋姫大王 次回の遣隋使で、隋に対し独立を宣言しましょう。文案は摂政、貴方に任せます。
厩戸皇子 承知しました。洒落た文にして御見せ致しましょう。
(narration) 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや。
炊屋姫大王 これは・・・・匈奴や突厥に倣いましたか。
厩戸皇子 さすがは大王、その通りでございます。
炊屋姫大王 分かりました、良いでしょう。そして、妹子よ、天子に会ったならば、我が国がいかに大国であるかという事を存分に語って聞かせるのです。百済や新羅は我が国を敬仰しており、常に使者が行き交っていると。
遣隋使 それから・・・・我が国の習慣や政治について皇帝に語ったところ、いかにも呆れた様子で、そのような野蛮な習慣は改めよと・・・・我が国も隋のような進んだ制度を作る必要があると考えます。
第00場 現代。
御子左 この後、小墾田野宮の造営や、冠位十二階、憲法十七条の制定など、王権の政務・儀礼形態の全面的な改正を急速に進めたわけだが、よほど文帝に言われたことが堪えたんだろうな。『日本書紀』ではこの時の遣隋使には一言も触れていないが。
万里小路 自分たちの国が野蛮な国であったことを認めるようなものだからな、体裁が悪くてとても書けないだろう。
第7場 西暦602年。朝廷。
厩戸皇子 時は来た。来目よ、2万5千の軍を率いて新羅を攻め滅ぼすのだ。
蘇我馬子 しかし、新羅の後ろには隋が控えておりますぞ。
厩戸皇子 隋は高句麗と抗争中だ、こちらには手を出せんだろう。この機に乗じて父祖の地を取り戻すのだ。攻めるのは今を措いて他にない。
臣 摂政!大変です。将軍が筑紫の地で病に倒れたと。
厩戸皇子 何だと・・・・・・・。それでは当麻よ、今度はお前が将軍となり新羅を攻めよ。
臣 摂政!筑紫からの報告によると、将軍の后が亡くなったとのこと。
厩戸皇子 なぜだ、なぜこうも立て続けに・・・・仕方がない、計画は中止だ。
第8場 西暦607年。隋の朝廷。煬帝が玉座に座っている。鴻臚卿(隋の外務大臣)登場。
鴻臚卿 陛下、倭国から使者が来廷致しました。
鴻臚卿、書状を煬帝に差し出す。
煬帝 ・・・・・「日出処の天子」だと?!天子はこの世に一人だけだ!!こんな無礼な書状があるか!もう二度と朕のところにこんな蛮国の書状を持ってくるな。
鴻臚卿 蛮族なので、礼というものを知らないのでしょう。お気持ちは分かりますが、ここはひとつ冷静になって下さい。我が国は今、高句麗討伐のため動いている真っ最中でございます。この余裕のない時に無用な敵を作るわけには
煬帝 知るか!!もうよい、下がれ!
(鴻臚卿、退出)
煬帝は一人考えている。
煬帝 確かに、今高句麗側に付かれたら面倒な事になるな・・・・それに一緒に来た使者が言っていたという事が本当ならば、他の蛮国とは少し違うようだ・・・・
数週間後。
煬帝は鴻臚卿を呼び出す。
煬帝 先日の件は分かった。帰国させるときの返書の内容はそなたに任せる。いいか、くれぐれもよく「教え諭させる」のだぞ。
鴻臚卿 こちらからの使者は誰に致しましょうか。
煬帝 そんなもの、卑官でよい。従八品あたりから誰か付けて送り出せ。
鴻臚卿 承知いたしました。
第〇場 西暦608年。隋からの帰途に就いた洋上。
随行者 妹子殿。
小野妹子 ん?
随行者 皇帝からの返事は、なんと・・・・?
小野妹子 いや。見ておらん。大王や摂政にお見せする前に開封する訳にはいかんじゃろ。
随行者 あの書状を皇帝が読んで、普通の反応を返すとはとても思えません。今後悪い事態を招来しないためにも、予め確認しておいた方が良いのでは。
小野妹子 裴世清は、どうしている。
随行者 もう休んでおられるようです。
小野妹子 そうか・・・・では、見てみるとするか。
小野妹子、返書を開封する。
小野妹子 これは・・・・・・・大王はともかく摂政にお見せする訳にはいかん。とんでもないことになってしまう。
随行者 やはり・・・では、如何致しましょうか。
小野妹子 ・・・・・・・
随行者 ・・・・・・・
小野妹子 この書状だが、・・・・
随行者 はい・・・・?
小野妹子 焼いて捨ててしまおう。そして、大王には途中の百済で奪い取られてしまったと言っておくんだ。
随行者 ! し、しかし、それは・・・・
小野妹子 勿論何らかの罰はあるだろう。だが、とてもこんな書状を持って帰ることはできん。血の気の多い摂政のことだ、絶対に事を起こすに違いない。これは我が国の存亡にかかわる。
第9場 朝庭。
小野妹子 ・・・・・・・という事で、残念ながら返書を持ち帰ることは叶いませんでした。
蘇我馬子 そんな馬鹿な話があるか!大事な書状を、奪い取られるなどありえんわ!
炊屋姫大王 まあ落ち着きなさい。とにかく失ってしまったものは仕方がありません。それに内容は大体想像がつきます。
厩戸皇子 では、今後どのように対応しますかな?
炊屋姫大王 もう一度遣隋使を送りましょう。隋との関係を確定させるために。
小野妹子 それでは、大王の称号をいかに致しましょうか。
蘇我馬子 称号?
小野妹子 左様です。前回の書状では、我が国と彼の国で、完全に同じ立場の「天子」という称号を使ってしまいました。今回また同じ内容で彼の国を刺激するのは危険が大きすぎます。とはいえ独立を宣言したからには、我が国の長が王ではまずい。かといって、皇帝では先ほど申した通り彼の国と同じ立場に立つことになり、二君相まみえずの彼の国の皇帝が黙ってはいないでしょう。今はその余裕がなくても、将来国力が盛んになった時に定めし我が国を我が物にせんと攻め込んでくるに違いありません。独立国に相応しく、そしてできれば我が国に固有の称号が望ましいが・・・・・・・
蘇我馬子 「治天下大王」ではどうか?ワカタケル大王が使っておった。
臣1 単なる盟主ではなく、君主としての大王か。
臣2 しかし「天下」の語が入っているのはまずかろう。
臣3 どうしたものかのう・・・・・・・
厩戸皇子 天の皇子、という意味で「天皇」というのは如何でしょう。この国を統治される大王は天の神の子孫でいらっしゃいます。彼の国の天子はあくまでこの地上の単なる一人の人間にすぎない。それが、天から選ばれたという理由で天子になっている。天とのつながりはない。そこが我が国との一番の違いではないかと思います。
炊屋姫大王 文案は今回も摂政にお任せしますが、対等であるという事を示せば十分です。余計な事は書かないように。きちんと相手を敬った表現で。いいですね?
(narration) 東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。
炊屋姫大王 なるほど、いいでしょう。
微笑とともに推古天皇は文案を厩戸皇子に返す。
小野妹子 しかし、大丈夫でしょうか。相手方にすれば、こんな失礼極まる書状を二度も送り付けてくるとなれば
炊屋姫大王 いいえ、むしろ二度目だからこそ送るべきです。前回は、予想もしない内容にさぞ皇帝は驚き怒った事でしょう。しかし、今回は向こうもこちらがどのように出てくるか予想できる。だから、書状を受け取ったときに驚きもない。こちらの言うことを容認はしなくても理解はしてくれる。・・・・とにかく今回この宣言を送り、皇帝がこれを受け取ったという既成事実を作ることによって、我が国が独立国であるという事を確定しこの天の下に知ら示すのです。
第10場 現代。
万里小路 この「天皇」号は、その後順徳天皇まで使われ、一時途絶えるが、光格天皇で復活する。
御子左 途絶えていた間、天皇は何と呼ばれていたんだ?
万里小路 そこまでは俺も調べてはいないが、・・・・政治権力を持っていない時代だから、そもそもそんな事を考える必要がなかったかもしれない。
第11場 西暦623年。朝庭。大夫登場。
大夫 新羅の使いが、隋に遣わした恵日らを伴って来廷いたしました。
恵日登場。
推古天皇 恵日よ、よく帰ってきた。彼の国は隋が亡んで、新たに唐という国に変わったそうだが、一体どんな様子であった。
恵日 まず順番に申し上げます。現在唐に留学中の者は、既に学業を修得しております。すぐに帰国させ、国のために役立てるべきです。そして唐ですが、律令という法律が整備された優れた国です。隋と同様、いやそれにも増して使者を派遣して交流し、その優れた所を学びとるべきです。
推古天皇 なるほど。・・・恵日よ、ぞれでは次の遣唐使にそなたも同行してまいれ。
恵日 承知致しました。
第〇場 西暦628年。推古天皇が病床についている。大夫が控えている。
推古天皇 田村皇子を呼んでまいれ。
大夫 承知致しました。
田村皇子登場。
推古天皇 天下を治めることは大任であるから、たやすく口にすべきではない。
田村皇子 承知しました。
(田村皇子、退出)
推古天皇 今度は山背大兄王を呼んでまいれ。
大夫 承知致しました。
山背大兄王登場。
推古天皇 自分の意見をあれこれいってはならぬ。必ず群臣の意見に従うように。
山背大兄王 承知しました。
(山背大兄王、退出)
第〇場 現代。
万里小路 この推古天皇の遺言だが、皇位継承に関して重大な変更点となった。
御子左 何がだ?
万里小路 今までは、次代の大王を決める際には群臣の推戴に拠っていた。大王の意志はなかったわけだ。ここで初めて、天皇の意志が考慮されるという事態が出来した。
御子左 ほう。
万里小路 内容は何てことない、二人の皇位継承候補者に対して自重を求めるというだけのものだが、大王がその位の継承に関して意見するという事自体が今までなかったものだった。このような遺言を残すという事は、何か不穏な動きを察知して、それを抑える狙いもあったとみられる。いずれにしても、30年以上の長きにわたって王位、皇位についていたことが大きかったのだろう。その年月の蓄積が彼女に大きな権力を持たせたとみるべきだ。こうして皇極天皇の、史上初の譲位への地ならしが整っていく。
第12場
臣 蝦夷殿!!
蘇我蝦夷 どうした?
臣 入鹿殿が兵を起こし、山背大兄王一族を襲いことごとく自害に追い込みました。
蘇我蝦夷 何!一人残さずか?
臣 左様で・・・。
蘇我蝦夷 何と馬鹿な事を!!それでは一体誰が厩戸皇子を祀るというのか!・・・もうわが一族はおしまいだ、必ずや怨霊の祟りが起こるだろう。
第13場 現代。
万里小路 その、乙巳の変に引き続き改新の詔が出されるわけだが、その原因となった東アジア全体を揺るがす大事件は何だった?
御子左 644年の唐の高句麗遠征だろう。
万里小路 そうだ。その事件の前後に、倭を含む東アジア諸国全体で権力集中の動きが一斉に始まっている。641年に百済で義慈王が、642年に高句麗で泉蓋蘇文が権力を握る。新羅では女王が君臨していたが実権は王族の金春秋と重臣の金?信が握っていた。
御子左 少なくとも日本史において、何か新しいことを始める裏には、何らかの危機が存在するという事だな。承平・天慶の乱の際に始まった天皇の神社行幸もそうだな?社会不安が高まった幕末に、孝明天皇が賀茂社行幸を行った、その原点がここにあったという訳だな。
万里小路 唐に対抗するためには強力な中央集権国家を創らなければならないという事だろう。そして倭では、蘇我蝦夷・入鹿父子による権力の私物化に対する危機感が高まっていた。そこへもってきてこの風雲急を告げる半島情勢。さらに伴造、伴・部制の弊害が目立ち始め、それによって起こっていた民の分断の深刻さ。クーデターはこのような中で決行された。
御子左 このまま蘇我氏の専横を許していたら、この国が危ないと。
万里小路 国の危機というより、中臣氏の危機というべきかもしれないがな。蘇我氏が台頭するという事は、中臣氏の没落を意味する。記紀を記すにあたり、藤原氏を良く見せるために書いた可能性はないとは言えない。『惟任退治記』ほどあからさまではないにしてもな。とにかく、今後の国の在り方を決めるうえで、権力集中はどうしても実現しなければならなかった政治問題だったわけだ。難波長柄豊崎宮の朝庭の突出した大きさにその意志を見ることができる。それから、大化の改新というのは権力の一元化のみならず、国造、ミヤケ、部民と言った重層的な制度の清算に象徴されるように、複雑になった諸制度の一元化にもあったともいえる。
御子左 素晴らしい政治改革、行政改革じゃないか、なあ。現代の我々もかくありたいものだ。
万里小路 ところで、この時代の政治史において、親百済派と新新羅・唐派の対立に注目する視点があるな。いわく、皇極から譲位された孝徳天皇は親唐・新羅派で、それに反対した皇極・中大兄が飛鳥宮への遷都を主張し孝徳亡き後斉明天皇重祚となって親百済路線に代わる。
御子左 で、天武天皇の時代に再び親新羅政策に転換するわけだ。
万里小路 これを知っていると知っていないのとではこの時代を読み解く力に大きな差が出てくる。
御子左 さっき言った、伽耶・加羅を攻め落とした新羅に対する恨みのようなものは当然、あったろうな。祖先の地を奪われたというなら尚のこと。
万里小路 それはつまり祖先を祀ることができないという事を意味する。一族にとっては存在の危機にあたる重大事だ。
御子左 親新羅政策をとった天皇はそのあたり、あまり重要視していなかったと。
万里小路 それが何を意味するか。・・・・今は、伏せておこう。
現代。
298頁以降参照。
御子左 さっき言った通り、新羅を攻めようと何度も計画されてはそれが潰された。そして、ついに実際に兵を出したのが百済復興のための白村江の戦だな。
万里小路 そしてこれは同時に、日本史上初めて中華帝国との敵対関係に入る途に踏み切ったという事だ。但し、もちろん純粋に百済を復興させるためだけにわざわざ兵を出したわけではない。百済を倭の支配下に置き、唐とは独立した冊封体制を作り上げるための戦争だ。実際に戦いの前に、百済王の余豊璋に対し天皇の臣下の標たる織冠を授けている。
御子左 それにしても、この時の斉明天皇の百済への入れ込みようは普通じゃないな。自ら陣頭指揮を執って筑紫まで向かうなんて。
万里小路 天理市の石上神社に、国宝の七枝刀がある。
御子左 ・・・・いきなり何の話だ?
万里小路 まあそう急ぐなよ。その七枝刀の銘文だが、百済王の世子が倭王のために作ったとも、百済王を倭王となすために、この刀を造ったとも解釈できる。百済という国名が現れた最古の史料だが、どうも皇室の故郷というべき地がその地にもあったようだ。だから天皇としては向こうが本国と考えていた節がある。
御子左 うーむ・・・・・・・
万里小路 筑紫に向かう途中の熟田津で額田王が詠んだ詩があるが、もう皆行きたくないと言っている中必死に宥めすかしている様子が目に浮かぶ。ああやって詩で鼓舞しなければ軍が動かなかった程、士気は低かった。周囲の者たちは皆出兵に反対していたんじゃないか?行く気満々だったのは斉明天皇だけだったかもしれない。とても勝てる気はしなかっただろうな。
御子左 組織のトップの気持ちだけで勝てると思うほど、馬鹿ではなかったわけだ、古代の人も。でも、言い換えれば、そこまで反対されても軍を動かせるほど、斉明天皇には権力があったともいえるな、それが本当なら。とはいえ、いくら百済を滅ぼされて危機感を持ったとはいえ、もう少し現実的な判断はできなかったのか?
万里小路 この数年前に、阿倍比羅夫による北方遠征が行われている。北海道にまで及ぶ、他とは隔絶した規模の遠征だった。この「成功体験」に引きずられてしまった可能性は否定できないな。
御子左 あーあ、よくある話だな。一時の小さな成功が判断を狂わせ、その後のより大きな失敗の種になる。前世紀にもあったよなあ、そんな事が。
万里小路 余談だが、中大兄はよく亡骸を難波まで持って帰れたな。下世話な話になるが、腐敗してとんでもないことになってたんじゃないか。
御子左 そうだな・・・・もしかしたら、例の古事記のイザナミの話もそのあたりから採って来たのかもな。ともかくこれに成功していれば、東アジア世界にもう一つの冊封体制が成立していたわけか。大きな賭けだったな。
万里小路 そして、その賭けに負けた。その結果、倭そのものの存続が脅かされることになる。西暦666年正月に唐の高宗は封禅の儀を行ったが、そこに倭の使者も参列している。つまり唐の臣下という事を認めたという事で、以前の立場から大きく後退しているが、国の存続がかかっている状況では選択肢はなかった。中大兄とその側近たちはこの情報は国内では伏せておきたかっただろうが、おそらくは何処かからこの情報が漏れて中大兄の立場は極めて不安定になったと思われる。称制を続けた理由もそのあたりにある、つまり即位したくてもできなかったんじゃないか。唐が高句麗を滅ぼした翌年、倭は高句麗平定の祝賀のため第6次遣唐使を送る。これなんかも完全な臣従で、こんな媚びへつらった内容は『日本書紀』にはもちろん書けないから遣使の目的は載っていない。
御子左 西日本の各地に馬鹿みたいに城を作って、しまいには都まで内陸部に移すわけだから、相当な危機感があったのが分かるな。
万里小路 この後、一刻も早く唐の侵攻に対抗できる体制を作るために近江令や庚午年籍の制定にとりかかる。西暦668年に中大兄は即位し7年に及ぶ空位時代が終わるが、この時妨害工作が行われていたことが分かっている。
御子左 何だ、それは?
万里小路 新羅の密偵によって草薙剣が盗み出された。幸いにしてこの密偵が乗った船が嵐で日本に吹き戻されたために草薙剣は戻ってきた。
御子左 なぜ、新羅の密偵が?それに草薙剣の保管場所がよく分かったな?
万里小路 琵琶湖のほとりで宴の最中、大海人皇子が長槍で敷板を貫く事件が起こったのはこの後だ。
御子左 宴会の席でそんなことやったのか?まずいだろそれは。
万里小路 普通じゃないよな。
御子左 この後西暦670年には、法隆寺の焼失という不吉な事件も起こる。
万里小路 そして、天智・大友政権はこの後、厳しい選択を迫られる。唐と新羅の抗争が始まり、どちらにつくかという選択だ。唐から戦争に来たのかと思われるほどの大船団が来て新羅に攻撃されている都督府の救援を要請し、新羅からは毎年のように使節がやって来て友好関係を築こうとする。
御子左 そして、郭務宗率いる唐使に対しては大量の貢物を与えて追い返すわけだ。この唐使の来日の目的も『日本書紀』には載っていないな。要は書けない内容だったという事だろう。その直後だな、天智天皇の死と壬申の乱が起こったのは。
万里小路 おそらく、煮え切らない態度を示した天智天皇に対する諸豪族の忠誠心は極度に低下していた。度重なる築城や遷都によって経済的にも疲弊していた。近江遷都に関して『日本書紀』にも記されているように、民の不満も極めて大きかった。この時代に世論調査があったら、支持率は限りなくゼロに近かったんじゃないか。このままではこの国は滅びるという危機感が壬申の乱に繋がったんだろう。
御子左 徒手空拳だった大海人皇子が瞬く間に味方を増やしていった理由が其処にあったのか。
万里小路 それについては、美濃と尾張はもともと大海人皇子の直轄領といって良かったことが原因として挙げられる。また乱の帰趨そのものについては、近江朝廷側の兵力動員をことごとく妨害できたことは大きかった。大海人皇子の名の由来となったと思われる大海氏は尾張の氏族で、天武天皇の葬儀では壬生の誄を行っている。
御子左 秘密裡に周到な準備をし、事を起こす時期を予め見定めて、時が来たら一気に動く。完全に置いてきぼりを食らった近江朝廷側には勝機はなかった、と。
万里小路 ところでこの時代、ひとつの興味深い事例を見ることができる。
御子左 なんだ、それは?
万里小路 皇統に関して、男系の継承がほぼ不可能であることが明らかになった時点で、最終手段として女系の継承が検討され、しかもそれが実行に移された形跡があることだ。
御子左 それは・・・・?
万里小路 持統天皇だ。
御子左 詳しく、聞こうか。
万里小路 持統天皇としては、男系での天智天皇の子孫がほぼ絶えてしまった中で、それでも天智系の皇統を維持するには、自分の子孫、つまり女系での継承に切り替えるほかない。そのことは持統という漢風諡号が物語っている。まさに「皇統を維持した」という意味だ。ついでに言えば持統という語は継体という語と一体で用いられる。さらにそれが実現すれば自分を皇祖とする新たな「女系による皇統」を創り出すことができる。そしてそれを実行に移すべく目障りな大津皇子を殺害した。
御子左 そんな事が・・・・
万里小路 『日本書紀』の、あの有名な天孫降臨の記述を思い出せ。神々の系譜、あれを見て何も気付かないか?
御子左 ・・・・ああ・・・・・・・
万里小路 自分を天照大神に擬している。現在の皇室の皇祖神だな、言うまでもなく。持統天皇の和風諡号は高天原広野姫天皇だ。だから、天子でなく天孫降臨にすることが後世自分が皇祖としての正統性を確保するために欠かせない条件だったわけだ。式年遷宮や大嘗祭が現在の形に整備されたのは持統天皇の時代とされている。もちろん天照大神の権威づけのため、と同時に自分の正統性の強化のためだな。これ以上は俺もまだ詳しく調べてはいないが、このアマテラス=持統という観念が神祇令を始めとした祭祀体系の構築に影響した可能性もある。
御子左 ・・・・それにしても、・・・・なぜそんな事が可能だったのか。
万里小路 それに当たっては、壬申の乱の結果有力な豪族が一掃されたことが有利に働いた。皇嗣決定に口を出す連中がいなくなったという事だな。それでも女帝が権力を行使する、それも皇嗣に関してそれまで例がないものを押し通すのは極めて難しいことは容易に想像できる。そこで協力者が必要になる。そこに現れるのが藤原不比等だ。中臣鎌足、乙巳の変とおそらくはそれに続く政争にも関わり、孝徳からの権力奪取をも成功させた、あの謀略家の子孫だな、言うまでもなく。
御子左 それにしても、何故そこまで天智系に拘ったんだ?別に天武系でもいいだろう。
万里小路 実は、天武から称徳までの所謂「天武系」の天皇は、皇室の祭祀対象から除外されている。
御子左 それは・・・・
万里小路 どんな事情があったかは分からないが、正当な皇位継承権がなかった、少なくとも不足していたとみることができる。だからそれを補うべく記紀をこしらえたり、様々な権威づけに躍起になっていたわけだ。天武天皇の時代に天皇の神格化が異様なほど進むが、そうやってカリスマ性を付与することによって正統性を確保したとみることもできる。
御子左 天武天皇が、実際には天智天皇とは兄弟の関係ではなかった、という説も以前からあるな。
万里小路 最大の問題点は、天智と天武両天皇の年齢を特定しようとすると、天武天皇の方が年上になってしまうということだ。さらに、天智天皇は実の娘を4人も天武天皇に嫁がせているが、実の兄弟だとしたらあまりにも異常だ。逆に、血縁関係が薄くそのままでは皇位継承が認められないため、婿入りの形で一族内に取り込むためだとしたら、この行為は無理なく理解できる。継体天皇なんかまさにそうだったな。自らは皇位継承の条件を欠いたまま天皇となった数少ない天皇の内の一人だ。
御子左 そうなのか?
万里小路 先代の天皇から4世以上離れて即位した天皇は継体天皇ただ一人だが、その縁の遠さが災いしてそのままでは皇位継承権が認められなかった。そこまで離れていてはもはや一般人に近づく存在だということだ。そこで、仁賢天皇の娘たる手白香皇女を后に迎えることで皇位継承が認められた。男系よりも女系の血筋が重視されたことを示す、今のところ最古の例だ。
御子左 ちょっと待て。そうなると、次の安閑、宣化、欽明の三人の天皇は女系天皇と言えないか?
万里小路 手白香皇女は天皇ではないからそこまで言う事は出来ないが、女系の血統によって皇位継承が実現したことは否定できないな。とにかく男系の血統としては認められていないわけだから、男系でも女系でもない不思議な天皇というか、限りなく女系に近い双系天皇というか・・・・。継体天皇について考えると、男系女系という区別がいかに無意味なものか分かるな。話は戻るが、壬申の乱の時に大海人皇子が自分を漢の高祖になぞらえていたことや、新羅から天武天皇即位を祝う使いが来た時の返答は新王朝の開祖としての意識充分だ。さらに、天武天皇の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」には、天命を受けて革命を起こす人という意味もある。そもそも『日本書紀』において、重祚した皇極・斉明天皇を除けば天武天皇は2巻を費やして書かれている唯一の天皇だ。最重要人物と言って良い扱いを受けているにもかかわらず、生年を含めた前半生が謎というのもおかしい。天智天皇と実の兄弟、しかも舒明・斉明両天皇の子でありながら、それが全く不明などということはありえないだろう。『日本書紀』では現代といって良い時代の人で、情報は豊富にある筈だぞ。
御子左 なるほど、状況証拠としては充分だな。
万里小路 持統天皇も、そして系譜上は天武天皇の兄という事になっている天智天皇も、当然天武天皇が何者であるか知っていた。その結果、天武天皇に皇統を渡してはならないと考えた。大海人皇子が天武天皇として権力を握った後、それまでの臣たちを排除して謂わば天武天皇独裁体制を築き上げた事なんか、「革命政権」と言っても良いぐらいだ。
御子左 そうすると、もし天武天皇に皇位継承権がなかったとしたら、・・・・
万里小路 皇統譜から天武天皇を抜くか、もしくは皇族とは何の関係もない一般人と入れ替えてみればわかりやすい。持統天皇から文武天皇への継承が、女系継承となる。で、そうなれば当然、元明天皇から元正天皇も女系継承だな。今まで、歴史上女系継承の例は一つもないとされてきたが、ここまで見てきて分かる通り少なくとも2例存在することがほぼ確実だ。今後、学校の日本史の教科書でもこの点が明記されることは間違いない。
御子左 こうしてみてみると、皇統が危機に陥った時の最後の砦として女帝が存在しているとみることもできるな。推古然り、持統然り。
万里小路 この、持統天皇の情熱と言うか執念が結実したのが、養老継嗣令だ。この中の規定で、わざわざ念を押すように本注を使って「女帝の子もまた同じ」と明記されている。日本独特のこの規定によって、女系継承が法的にも定められた。
第14場 西暦690年、朝庭。
臣 陛下、大変です!
持統天皇 何事ですか、一体?
臣 彼の国で政変が起こりました。皇后であった者が新たに皇帝として即位して、国号を周と改めたという事です。
持統天皇 それは一大事。皆を集めてまいれ。
臣 かしこまりました。
、粟田真人、登場。
持統天皇 ・・・・これは、まさしく千載一遇の機会。この機を逃せば、我が国に将来にわたって存亡の危機を残すことになります。
臣 では、如何に致しましょう。
持統天皇 周に対し遣使しましょう。白村江の戦以来、唐との関係は悪い状態が続いていました。その関係改善が目的、いえ、この際一新してしまいましょう。
臣 では、具体的にどのような方法で・・・・?
粟田真人 それについて、我が国も国号を定めるというのは如何でしょうか。新たな国になったという事を印象付けるのです。
持統天皇 なるほど、それは良い案です。では、どんな国号が良いかな?
粟田真人 いささか平凡ではありますが、「日本」では如何でしょう。
臣 「日本」?日ののぼる所か。
粟田真人 そうです。周からすれば我が国は日本となります。それをそのまま国号とするのは如何かと。
臣 本当に平凡だな。もっと良い名にした方が良いんじゃないのか?
粟田真人 しかし、下手な名前を付けて周を刺激する訳には行きますまい。それにこの名前ならば、周を中心とすることを前提としており、周の皇帝も承認がしやすかろうと考えます。
持統天皇 その案で良いでしょう。今回の遣使は、周との関係を良好な状態にすることが目的です。そこを間違えてはなりません。
臣 分かりました。他に意見がなければ、本日はこれで散会とする。
(皆退出する中、持統天皇は粟田真人を呼び止めて)
持統天皇 真人よ。
粟田真人 ・・・・はい。
持統天皇 上手くやるのですよ。
粟田真人 承知しております。
第15場 西暦702年、楚州塩城県。
官人 汝らはいったい何処の使いだ。
粟田真人 我々は日本国の使いである。
官人 日本?そんな国は聞いたことがない。
粟田真人 知らないか。これまでも何回か唐に使いを送っているが。
官人 さて・・・・・・・ああ、東の国という意味か。そうか、汝らは倭人か。
粟田真人 いや、倭ではなく日本だ。国号が日本という事だ。
官人 どういうことだ、それは?倭が滅びて日本という国が興ったのか?日本という国が倭を滅ぼしたのか?
粟田真人 そうではない。倭ではなく日本と号することにしたのだ。
官人 なぜそのような事をするのか?
粟田真人 それについては我々は知らされていない。
官人 どうもよく分からないが・・・・東には大倭国という国があり、君子が治める国と聞いている。人民は豊かで礼儀厚く生活していると。いま汝らを看るに、身なりは非常に清潔で整っておる。信用してよいようだ。
第16場 周の朝廷。
臣 皇帝陛下、楚州から日本国の使いと名乗るものが来廷しました。
武? 日本?一体どこの国じゃ。
臣 かくかくしかじかで・・・・
武? なんだか要領を得ないねえ。もうよい。こちらに連れてまいれ。
粟田真人、入室する。
武? なんという柔らかく雅な物腰・・・。聞いていた通りじゃな、他の蛮族の使者たちとは一味違う。
武? で、何故国号を変更するのじゃ?
粟田真人 それについては、我々は知らされていません。
武? そんな訳があるか。お前たちはそのことを伝えにわざわざ参ったのであろう。それなのに理由を知らないという事があるか。
粟田真人 何と申されましても・・・・。ただ、陛下もこの国の国号を周と改めました。それは過去の理想を再びこの世に実現させようという強い意志があったからと拝察します。わが君も、我が国をより良くするという事は常に念頭にあります。その際に、倭という良くない字を嫌ったことは容易に想像できます。
武? ム・・・・
粟田真人 そこで、周から見れば日の昇る方角にある国、という意味で今回の国号の変更の決断に至ったかと。
武? 本当か?本当にそれが一番の理由か。
粟田真人 それはわが君の胸の内に・・・・
武? ・・・・まあよい、言いたくないのならこちらもこれ以上は聞かぬ。もうこれについては終いにして、宴じゃ。麟徳殿で宴の準備をせい。
麟徳殿での宴。
武? なるほど、そちは以前にも我が国に来て勉強しておったのか。道理で我が国のことをよく知っておるわけだ。
粟田真人 恐れ入ります。
武? よし、そちに司膳卿の位を与える。国号の件も良かろう。これからは日本と名乗るがよい。
粟田真人 ありがとうごぜいます。
第17場 現代。
万里小路 その危機を解消するために、謂わば捻り出されたのが、「日本」という国号だな。それを承認してもらうために遣唐使を送り、弁正と山上憶良が唐、いや当時は周か、その地でおそらく初めて「日本」の語を用いた詩を詠うわけだ。
御子左 粟田真人の俊才もさることながら、この時の君主が武?であったことは俺は日本にとって心底良かったと思っている。
万里小路 そうそう。武?じゃなかったら日本と倭の関係を説明というより、いわばごまかした使の説明なんか通用しなかっただろう。本当に幸いだった。
御子左 そして、武則天がこれまた幸いなことに人材を見抜く目を持っていたことだな。
万里小路 そう、まさに日唐の緊張関係を解消させるために出て来たように思える。
万里小路 これを武?が受け容れてくれたことによって、日本の「不臣の外夷」という独特の地位が定まる。白村江の戦い以来悪化していた日唐関係を清算して、冊封を受ける臣下ではないが、攻めるべき敵でもないという地位を手に入れることによって唐の侵攻を受ける危険は去ったわけだ。
御子左 この時期に武?帝が現れたことは本当に幸運だった。
万里小路 ・・・いや、これただの幸運じゃない気もするな。むしろ、積極的にこの機会を捉えて遣唐使を送り込んだんじゃないか?
御子左 もしそうだとしたら、まさに機を見るに敏ですなあ。
万里小路 それにしても、日本という語義が示している通り、おそらくは一時しのぎの、その場の間に合わせのために作られた国号だったんだろうな。それが結局1300年以上も使われ続けて現在にまで至るわけだ。
第18場 西暦758年12月、朝庭。渤海に派遣されていた小野田守の帰朝報告。恵美押勝(藤原仲麻呂)臨席。
小野田守 唐では節度使の安禄山と史思明が反乱を起こし、皇帝の玄宗は都を捨てて逃げ出したそうです。
恵美押勝 それは一大事ではないか。では唐は現在混乱の極にあるという事だな。
小野田守 左様で。
恵美押勝 これは千載一遇の機会・・・・帝、これは新羅を征する絶好の機会ですぞ。
臣 太保、それは危険です。新羅に手を出せば宗主国の唐がだまっておりますまい。
恵美押勝 今なら唐は我が国に手を出せん。今を措いて他に機会はない。
淳仁天皇 分かった。では太保、すぐに計画を作成せよ。
散会した後、臣と臣。
臣 太保は何も分かっておらん。乱が収束すれば我が国は唐との全面抗争に入ることになる。百年前の過ちを繰り返すつもりか。
臣 しかし、太保には皇太后がついておる。皇太后の意志ある限りどうにもならん。
臣 このままではこの国は・・・・・・・
第19場 現代。
御子左 そして、まさに新羅征討が実行されようとしたその時、仲麻呂の後ろ盾だった光明皇太后が死ぬわけだ。それに引き続いて孝謙上皇が平城京に戻って、淳仁天皇を廃し征討の危機は去った。
万里小路 親新羅派が孝謙上皇を支援していたのだろうが、それだけではこの政権奪取を成功させることは難しいだろう。やはり仲麻呂の亡国の政策が朝廷内に相当な危機意識を醸成していたんだろう。
御子左 そして孝謙上皇は重祚して称徳天皇となるわけだ。
万里小路 重祚が重大な政変と関係していたという事を示す例だな。
御子左 そういう意味では、天皇が権力を持っていた時代だからこそ起こった事だと言うことができるな、重祚というのは。
万里小路 左様、現代ではよほどの非常事態でも起きなければその必要も意味もない。
御子左 称徳天皇と言えば、有名なのは何といっても道鏡事件だな。結局あの事件の真相って何なんだ?
万里小路 それ以前から、君臣の別が曖昧になってきた。その頂点に起こったのが、あの事件だったのさ。
御子左 ほう。
万里小路 鍵になるのが、光明皇太后と藤原仲麻呂、そして武?帝だ。
御子左 ええ?また?
万里小路 簡単に言えば、光明皇太后は武?帝に憧れ、彼女に自分を擬えていた。藤原仲麻呂はその走狗となって動いていたという事だ。
御子左 むむむ・・・・
万里小路 まず、元正太上天皇の遺勅から紹介しよう。
(narration) 朕の教えに背いて王族らは自分の手に入れることができない尊い皇位を望み求め、他人を誘い、悪しく穢い心を以って邪なはかりごとを立てる。また臣下の者らは自分の思いのままに、それぞれの王族に味方し、かたくなに無礼な心を以って邪なはかりごとを構えている。このような人々を朕は必ず天を飛びながら見晴るかし、退け、嫌い遠ざけるぞ。
万里小路 元正太上天皇の時代、既に後継者問題において皇族や藤原氏以下の貴族が好き勝手に、自分の都合が良いようにふるまっていたという風に読める。中でも元正太上天皇の崩御直前の天平20年3月、中央政界で新人事が公表される。従三位で参議の藤原仲麻呂が正三位の筆頭参議へ昇進した。
御子左 光明皇后―藤原仲麻呂体制が整った、ということか。
万里小路 そして聖武天皇の時代、気弱で病弱な天皇に代わって実権を掌握していた光明皇后は孝謙、淳仁両天皇の時代も引き続き実権を持ち続けるどころか、紫微中台を置くなどその強化に努めた。
御子左 本当に武?帝のように気が強そうだな・・・・
万里小路 西暦758年、淳仁天皇が即位した。この時、朝廷の役職名が唐風に改められた。例えば藤原仲麻呂の太保という役職は、以前の右大臣にあたる。これは藤原仲麻呂がやったという事になっているが、裏でこれを主導した人物がいると俺は見る。
御子左 それは・・・・光明皇太后か?
万里小路 そうだ。最終的に彼女が何を目指していたか、それは分からない。下手をすると本当に、自分が天皇になる、いや武?帝のようになるならむしろ天皇を廃して自分が日本の皇帝になる、そこまで考えていたかもしれない。
御子左 それにしても、良きにつけ悪しきにつけ、日本に影響を残さずにはいない人だな、武?帝と言う人は。
万里小路 まさに一代の傑物だ。この後周知のとおり、藤原仲麻呂は反乱を起こす。もはや何でもあり、そんな中で自分の子供はいない、藤原氏は信用できない。そういう立場に立たされた称徳天皇が一体何を考えるか。能力があれば後継者は誰でもいい、そう考えても全く不思議はない。
御子左 おお・・・・
万里小路 まあそれは言い過ぎだとしても、実はここで称徳天皇は、中継ぎで道鏡を起用しようとしていた節がある。
御子左 男を中継ぎに、か?斬新だな。
万里小路 天武系、いや持統系というべきか、その皇統は称徳天皇で断絶する、と誰もが思っていただろう。ところがそれは男系に限った話で、女系で見た場合、井上内親王の子であった他戸親王がいた。彼に皇位を継ぐことができれば、女系継承で持統系が続くことになる。その場合、彼が成人するまでの間、誰に皇位を「預け」れば良いか。道鏡ならば、藤原氏のような面倒な事は起こさないだろう。子もいないので1代限りであることが確定している。「道鏡系」などという皇統ができる心配もない。
御子左 完璧だな。
万里小路 しかも、この前に女系継承のモデルケースが既にある。それは・・・・
御子左 持統天皇か?
万里小路 そうだ。そういう「先例」があったから、称徳天皇もやりやすかったことだろう。先に見た養老継嗣令によって、法的な裏付けもある。
御子左 しかし、俺は思うが、こんな混乱の原因を作ったのは藤原氏じゃないかという気がする。
万里小路 そうだな。和気清麻呂が宇佐八幡宮から持ち帰った神託、あれは道鏡と称徳天皇に対してだけ言ったんじゃなく、むしろその背後にいた藤原氏に対して言ったと考えるべきかもしれないな。
御子左 よーし、なんだかすっきりしたぞ。次行こ、次。
万里小路 ・・・・その前に。ここまで見てきて、何か、大事な事に気付かないか?
御子左 大事な事?
万里小路 「天皇」号や国号の成立、遣隋使や遣唐使の開始、皇位継承法の変更など、国の体制を決める重大案件は全て、女帝の時代に行われているという事だ。
御子左 ・・・・そうか!そう言われれば、そうだ。その通りだ。
万里小路 与党と一部の野党に多いが、男系主義の議員はよく女帝軽視の発言をするが、歴史を学習していないからそういう思い込みによる間違った意思決定をしてしまう。こんなの、言ってみれば高校レベルに毛の生えたようなものだぞ?せめてそれぐらい学習しろよ、と言いたいね。
御子左 全く、思いて学ばざれば何とやらだよなあ。
万里小路 さて、さっきの称徳天皇の計画だが、この後の歴史を見れば明らかなようにそれは画餅に終わった。井上内親王と他戸親王が殺され、持統系はここに断絶する。そして、一説にはこれが遥か先史時代から続いてきた、二つの大きな勢力軸の対立の終焉を決定づけた。
御子左 何だ、それは?
万里小路 今のところはあくまで一説にすぎないから、詳細は控えよう。一方の勢力とは、新羅、出雲、蘇我・尾張、天武。もう一方は、百済、倭、藤原、天智。
御子左 何だ、急にそんな暗号のような謎めいたことを言って。気になるじゃないか。
万里小路 まあ気にしなくていいよ。今後の研究の進展に期待、と言っておこう。この後の氷上川継の「謀反」によって大伴家持を含む天武・非藤原系諸氏が処罰され、天智系・藤原氏体制が盤石のものとなっていく。
万里小路 北畠親房の『神皇正統記』によれば、桓武天皇の時代に日本と三韓は同民族であると書かれた本をすべて焼き捨てた。つまり、この時代に至って日本は朝鮮半島側の領土回復を完全に諦めたということだろう。桓武天皇の母が百済系帰化人の高野新笠であったこともその傍証である。(第1巻・460頁)
御子左 つまり、百済や伽耶・加羅と縁を切って現在の日本の礎となる覚悟を固めたということか。
万里小路 相手が朝鮮だけなら何とかなったかもしれないが、バックに宗主国たる唐がいるとあってはどうしようもない。
御子左 なんだか俺にはイギリスと日本の共通性が感じられて仕方がない。あの国も、本国はもともと大陸側にあってグレートブリテン島は謂わば占領地だったわけだが、百年戦争の結果大陸側の領土のほぼ全てを失って島嶼国家として歴史を作っていくことになる。
万里小路 言うまでもなく日本から中華帝国への遣使はその後も続いていく。宋が大陸を統一した直後、もとは藤原氏の一族だったらしい東大寺の僧「然が太宗に謁見している。その時太宗は、この「島夷」が、皇統が変わらず、臣下も継襲していることに「此れ蓋し古の道也」と感嘆したらしい。
御子左 やはり、向こうもこちらに対してある一定の敬意を持っていた事が窺い知れるな。
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