人にして仁ならずんば、楽を如何。
 楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや。











 風は冷たいが、暖かい日差しが心地よい。むしろ少し歩くと暑さを感じる程で、体の火照りを風が冷ましてくれる。
 若さや生命力を象徴するような新緑が眩しい、晴れた初春のある日。
 日本藝術大学の掲示板の前に面白くなさそうな表情をした一人の学生が立っていた。
 彼の名は古戸 勉。今年この大学の音楽学部、音楽教養学科に入学した学生である。彼はしかし、掲示板の中から自分に関係のある情報を探しているのではなかった。

 なぜ、俺はここにいるんだろう?    ・・・・いや、それじゃ駄目だ。もっと現実的に考えよう。

 なぜ、駄目だったのか?
 やはり、実技試験のピアノの出来が悪かったからか?たしかに、ミスも多かったし、表現もあまりに自分の趣味に走りすぎたかもしれない。
 あるいは、面接で極端なことを言いすぎたのが響いたのだろうか。

 答えの出るはずもないことを、何回も繰り返して。
 そんなことを数十分も、掲示板の前で考えていたのだった。

 彼は音楽教養学科が第一志望ではなかった。この大学も含めて作曲学科のある大学を四つ受験したのだがことごとく不合格になり、大して意味もなく受けたこの学科も最初は不合格になり、辞退者が出たためかろうじて追加合格の枠に入ったのだった。
 掲示板をぼんやりと見つめていた彼の目に、ふと新入生合同オリエンテーションの掲示が目に入った。
 そうか、今日はこれに参加しないといけないんだった。
 時計を見るともう開始時刻の十分前である。彼は急いで会場になっている大ホールへ向かった。

 大きなパイプオルガンが据えつけられている大ホールは六〜七割がたの席が埋まっていた。古戸が空いている席についてすぐ、今後の日程などの説明が始まった。そして二十分ぐらいたったとき、後ろのドアが開いて遅れてきたらしい学生が一人入ってきた。
「いやいや、すっかり忘れてたよ。俺としたことが・・・」と、誰に聞かせるわけでもない言い訳を小声でつぶやきながら、彼は古戸の二つ隣の席に腰を下した。

 オリエンテーションが終わり、席を立った古戸を隣の遅れてきた学生が呼び止めた。
「ねえ君、悪いんだけど」
「何か用?」
「俺遅れてきちゃってさ、始めのほうの説明聞けなかったんだよね。どんな話だったか教えてくれないかなぁ。コーヒーでもおごるからさ」
「まあ、いいけど」
「じゃあ、そこの学食に行こうか」

「これも何かの縁だ、お互いに自己紹介しようぜ。俺は瑠非違使 泰貴。器楽演奏学科のピアノ専攻だ」
「俺は古戸 勉。音楽教養学科」
「へぇ、それはまたずいぶん胡散臭いところに入ったねぇ・・・。今年から新設されたってやつでしょ?何か思うところあって?」
「別に。他に受けたところが全滅しただけだよ」
「それは残念」といいながら、瑠非違使の表情は残念さに欠けているように古戸には見えたが、そんなことを気にしても仕方がないので、口に出しては何も言わなかった。
「今日はどうもありがとう。助かったよ。機会があったらまた会おう、といっても必修講義とかもあるからどこかで顔を合わせることになるかな?」

 掲示板の前に戻った古戸は、今度は真面目に、自分に関係のある情報を探し始めた。
「新入生でも指揮棒が振れる!」
 目に留まったのはこの大学のオーケストラの指揮者募集の掲示だった。
「指揮ですか・・・」と意味もなく独り言を言い、半ば無意識で募集要項を追った。選考は小論文による、か。



 春風や闘志いだきて丘に立つ
               (虚子)



「久那津、これ見てくれよ」
 日藝大管弦楽団の主席指揮者である篠堀 寿太郎は、指揮者募集に応じてきた論文のひとつを同大管弦楽団の指揮者の一人である久那津 武士に見せた。
「ふーん、すごいね。切り口が斬新というか」
「でも、応募してくるとこ間違ってないか?これって指揮に関しての文章というよりは、作品解説みたいな感じだよな。しかも相当主観が入ってるし。うちは評論家を募集しているわけじゃないんだから」
「でも、似たような感じの音楽ばかりになっても困るし、ある意味そういう異能を発掘して育てるのも大学のオーケストラの存在意義のひとつだと思うけど」
「たしかに、プロオケにできないことをやるのは大事だが」
「それに、今年から普通のオーディションでなくあえて論文のみで選ぶようにしたのも、今まで捉えられていなかった音楽性を発見していこうという趣旨があったからじゃないか?」
「俺はそれ自体もどうかと思うがな。まあ、そういう意図があるのは理解できる」
「目蹴部先生はどう思いますか?」
 久那津が白髪交じりの初老の男に問いかけた。
「ふむ・・・そうだな」そこまで言って一息ついたところで、厳しさの中にも暖かさのある微笑を浮かべた男が入ってきた。
「どうかな、面白そうな学生はいるかな?」
「朱里先生、随分早いお帰りですね」目蹴部がその男に話しかけた。
「ああ、今後の方針もすんなり決まりましたよ」
「ということは、やはり縮小ですか」
「そういうことです。今公認されているだけで4つものオーケストラを持っていますけど、それも今年度限りとなりました」
「そうなんですか?」篠堀が口を挟んだ。
「今の日本の経済状況を反映して、全国の芸術大学の大統合が行われているのは知っているだろう。補助金の大幅な削減などで、経営の見通しが立たない学校は次々に吸収・廃校となっている。今いろいろな所にその皺寄せが来ているんだ。芸術系の学校にとっては受難の時代だ」
「プロのオーケストラも、発展的解消の名目で統合の動きがありますもんね」
「ただそうなった背景には、芸術を学んだ人間がこの社会の中で何をしているのか、と言う重い問いかけがある。この経済状況の中でそれが表面化してきたわけだ。芸術の存在意義が厳しく問い直されているともいえるな」
「君達も知っているとは思うが、最近も酷い事件があった。作品に政治的主張を持たせたことに対するリスクを全く考えていなかったために展示会そのものが中止になった。しかもそのあと記者会見で言ったのは日本国内ですら通じないような内容で、海外の記者は日本の芸術水準を疑っただろう。これは国家の信用を失墜させる水準のものだ。敢えて例えれば、芸術という道具を使って行なわれたテロだ」
「あの事件はいくつもの罪の複合体だが、他にも10億円からの税金を投入した展示会でそんなことをやったということもそうだな。しかも後始末でさらに税金が投入されると聞く。よくもこんな杜撰なプロジェクトに巨費を投じる気になったものだ。作者名を明らかにせずに展示して、主に中南米の芸術家から猛烈な反感を買ったのもそうだ。要は作者から作品を盗んだわけだ。あの事件の首謀者達のやったことはつまるところ、芸術に対する冒涜、全ての良き芸術家に対する名誉毀損だ」
「こんなことがあれば、芸術家に対する世間の目も自然と厳しくならざるを得ない。全くとんでもないことをやってくれたものだ」
「問題なのは、そんな救いようのない展示会にもそれなりに人が集まってしまったことだ。芸術というものが如何に世間から理解されていないかが露呈してしまったとも言える。 「最近では、ある宗教団体の支援を受けている政党が音楽系の学校の全面的廃止を訴えているらしい」
「ああ、それなら聞いたことがある。空想的快楽を貪るような人間を育ててしまう、音楽は精神的薬物だ、という主張だな。それに対して答えるなら、漢書から引用して音楽とは『人の邪意を払い漱ぎ、正しい性情を純化し、気風を移し習俗を易えるものである』とでもするかな」


だからこそ、敢えて言うが『本来の』芸術の姿をいろいろな形で内外にアピールしていきたいのだ。この学生指揮の試みもそのひとつだ」
「というわけで、アピールの材料になりそうなものなら何でも使いたいというのが、本音のところだが・・・」
「その材料のひとつについて、今話をしているところでした」と、目蹴部は古戸の論文を朱里に見せた。
「・・・・いいんじゃないか?一人位はこういう変わった学生を入れておいたほうが良い」

「朱里先生がそうおっしゃるなら、特に反対することもありません」


 数日後、小ホール。
 古戸を含めた十人程が、日藝大管弦楽団の指揮者説明会のために集まっていた。
「あれ?」
「やあ、君の論文読ませてもらったよ。なかなか面白いことを書いているじゃないか」
 集まった中に瑠非違使の姿もあった。
「君も指揮者に応募して・・・?」
「いやいや、俺はただの冷やかしだよ。将来俺とコンビを組むであろう人の顔を見ておこうと思ってさ」
 そんなことを話していると説明者らしい人たちが入ってきた。
「皆さん初めまして。私は日藝大管弦楽団主席指揮者の篠堀 寿太郎です。ここに集まって頂いた皆さんは論文による選考により当楽団の指揮者として採用されました。皆さんには毎月行われるコンサートの指揮を執って頂きます。第一回目は5月の連休中の開催を予定しています」
「は?・・・ちょっと待て」何人かの囁きがもれてくる。
「かなりの強行軍・・・て言うかとんでもないハードスケジュールじゃないか」
「聞いてないぞ、そんな事。俺はこれだけのために時間を使うわけにはいかないんだ」
 その声のする方に一瞬鋭い視線を送り、篠堀は説明を続ける。「こちらは顧問の目蹴部 琉宮也先生です。演奏会の運営等でいろいろとお世話になります。」と、篠堀が自己紹介を兼ねてとなりの初老の男をを紹介した。
「よろしく」目蹴部は一言だけ挨拶した。
「選曲に当たってはまずこちらから作曲家を指定します。あなた方は指定された作曲家の作品から好きなものを選んで、遅くとも本番の二週間前までにどの作品でいくかを知らせてください。練習時間を確保するためにも、早めの決定をお勧めします。但しコンサートのメインは交響曲から選んでください。反対にアンコールなどで使用するのは交響曲以外でお願いします。ところで」
 そこまで言ったところで、篠堀は採用者を見渡した。
「この中で、今まで指揮というものを一回もやったことがない、オーケストラの指揮がどういうものか分からないといった人はいますか?」
 手を上げたのは古戸一人だけだった。
「君は、指揮ってどんなものかまったく分からない?」
「はい」
「そうか。いまどき珍しいな。知ってる人は小学生でも知ってるんだが。じゃあ君は後でちょっと残ってもらって、基礎的な指揮法を学んでもらおう。久那津、頼む」
 隣の男にそう言うと、説明を続けた。「初回の作曲家については、後日オーケストラのメンバーとの顔合わせを実施しますので、そのときにお知らせします。今まで言ってきた事で、何か質問はありますか?」
「メインを交響曲にする理由を知りたいのですが」
「理由は主に二つ。クラシック音楽でオーケストラを使った音楽といえば、所謂交響曲がやはりもっとも一般的であること。そして、例えば英語でsymphonyという語の語源が示す通り、単に複数の旋律が同時に存在しているというだけではなく、それぞれが調和をもって存在していることで、有機的なつながりがあること。皆さんには単なる『綺麗な音の総和』の次元にはとどまらない音楽を目指してほしいという意図があります。それに関して一つヒントというか、作品解釈の道標として一言、古今和歌集の序文にある『身を合わせたり』を贈ります」目蹴部が答えた。

「それじゃ、今から指揮について簡単な説明をしよう。申し遅れたが、僕は久那津 武士。日藝大管弦楽団の指揮者だ。まず、指揮というものは右手がメインで、左手は補助的な役割だ。指揮棒はこの右手の延長だと思えばいい。右手の動きは、例えば4拍子ならこんな動きだ。1・2・3・4」
 そう言いながら、久那津は空中に優雅な線を描いた。
「一緒にやってみてくれ」そういわれて、古戸はややぎこちなくもなんとなく久那津に似た線を空中に描いた。
「そして、当たり前だけど速いテンポのときは速く動かし、遅いテンポのときは遅く動かす。こんな感じだな」
 古戸も真似をする。
「大きい音を出させたいときは腕の振りも大きく、反対に小さい音のときは腕の振りも小さく。・・・そう、そんな感じだ」
「そして、レガートで滑らかに演奏させるならこんな風に滑らかに、スタッカートで音を切りたいときは角をつけて」
「出来てるじゃないか。これなら大丈夫だな。じゃ、次は左手だ。まあ一度にたくさん言っても覚えきれないだろうから、とりあえずヴォリュームに関してだけ。少しだけヴォリュームをあげたいのならこういう風に、肘から水平にして手のひらを上に向ける。クレッシェンドならそこから少しずつ上に上げていく。そして最大音量を要求したいならこう、腕を震わせる」
 久那津は慣れた手つきで左手を動かす。
「ヴォリュームを下げたいのならこの反対だ。どうかな、大体分かったかな?」
「はい、どうもありがとうございました」

「ちょっとちょっと古戸君、お茶でも飲んでいこうぜ」
 瑠非違使が古戸に声をかけ、生協の隣で営業している喫茶店に入った。

「君は本当に何も知らないんだな。まさか指揮があればっかりだなんて思ってないだろうね?」
「他に何かあるの?」
「・・・まあいいや。君の論文を読んで、これは凄い奴が入ってきたなと思ったんだけど」
「ちょっと待て。何で君が、俺の論文を読んでいるんだ?」
「ああ、ごめん。さっき説明していた、篠堀って人がいただろう。あの人は俺の高校の先輩なんだ。それで顔が利くんで、今年指揮者に応募して来た人の論文を見せてもらっていたんだ」
「ふーん・・・」
「ところで、君はいろんな作品の名演奏というものを聴いたことがある?」
「いや。そんなに違うものなのか?」
「これだ。とても今から指揮をやろうとしている人間の台詞とは思えんね。今度何枚かCDを持ってくるから、暇なときはとにかくそれを聴いてみることだ」
「それはどうも」
「もう一つ。君のオーディオシステムはどんな感じ?」
「えぇ?普通のミニコンポだけど、それが?」
「やっぱりね。それじゃ駄目だ。ちょっと俺の部屋に来いよ、どうせ今日はもう何もないだろう?」


「しかし、これは凄い奴が入ってきたな」
 古戸と瑠非違使が去った後、篠堀は笑いをこらえきれないといった表情で立っていた。
「何も分かってない、と言いたそうだな」
 久那津が応じる。
「お前もひどい奴だな。あんな教え方をするなんて」
「あれで十分だろう。後は本人次第だ」
「大丈夫か、あいつ?・・・ま、次も顔を見せたら褒めてやるべきかな」
 目蹴部が一言、二人に聞こえるか聞こえないかの大きさの声で漏らした。
「後生畏るべし、となるか、果たして・・・」




 瑠非違使の部屋にあったのは、二、三百枚はあるクラシックのCDと、音楽関係の書籍、そして高級そうなステレオ装置だった。中でも目を引いたのは、高さが一メートルほどもある自作したのであろうスピーカーだった。
「すごいね、これ」
「クラシックを本気で聴こうと思ったら、最低これくらいの装置は必要だ。ことばで説明するより、実際に聴いてもらったほうが早いだろう」と言って瑠非違使は、一枚のCDをかけた。


 ・・・・・・・!!

 部屋いっぱいに広がる、芳醇で色彩豊かな響き。金管の輝き、木管の音の滑らかさ、低音打楽器の地を揺るがすような迫力。ピアノの打鍵の衝撃、声楽の、歌い手の気持ちまで伝わってくる、驚くべき表現力・・・こんなことがあるのか!?オルガンの、冷え切った空間を暖かく振動させるような共鳴、チェンバロの深みのある音(チェンバロに深みなんかあったのか!?嘘だろ?)
 ・・・・空気中の不純物がすべて取り除かれたような、艶やかで透き通った音。音が身体を突き抜けて、どこまでも伸びていく・・・・
 体全体を包み込むようなその響きは、今までに経験したことのないものだった。


 この高貴な響き、・・・・今まで俺が聴いていたのは、あれは、あれは一体何だったんだ?・・・・音楽、音楽ではなかったのか?・・・あれは・・・・音楽ではない・・・・貧弱な、薄っぺらい・・・・ただの空気の振動・・・・・・・



「どうだい。まあホールの響きそのまんまとは行かないけど、雰囲気は出てるんじゃないかな?」
「いや充分だよ。凄すぎて、言葉が出てこないよ」
「これで分かっただろ?音楽が生活の中心にない一般人ならともかく、僕らのような人種がミニコンポなんかでクラシックを聴くなんて、はっきり言って人生の無駄遣いだ。君もこういった装置を揃えるべきだ」
「でも、高いんだろう、ここまで本格的なものは」
「そりゃもちろん安くはないが、別に何百万もするものを買えと言ってるわけじゃないさ。いいか、これはもしかしたら君の人生を左右する重大な問題かもしれないんだぞ。君がこのさき音楽の道へ進むのであれば、決してこの出費は無駄にはならない」
「と言っても、一体どんなものを買えばいいか・・・それにこのスピーカー、自作だろう。俺にこんなものが作れるかどうか」
「その辺は俺が教えてやる。スピーカーにしたって、その丸い奴、ユニットって言うんだけど、それは完成品を買ってきただけだし、周りのエンクロージャーもただベニヤをくっつけて作っただけだよ。昔はDIYのお店に設計図を持って行けば切ってもらえたんだけど、最近は殆ど無くなっちゃったみたいだね。だけど自分で何とかできるだろ、これぐらいなら」
「ふーん・・・」
「この本に設計図がたくさん載ってるから、自分の部屋にあったものを選ぶといい。それと、ついでだ、このCDも持っていけよ。どうやら最初のテーマはベートーヴェンらしいぞ」
「最初のテーマって、俺たちが指揮する演奏会の・・・?」
「篠堀先輩が、そんなことを言ってたよ」

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