「諸君」指揮者ミーティングの席で、篠堀が口を開いた。「次は、ブラームスだ」
ブラームスの音楽を一言で表すなら、「重厚緻密」これに尽きる。膨大な作品を残したのに、そのほとんどどれもが充実した響きを出すのには驚嘆させられる。彼の音楽を聴いた後では、他のどの作曲家の作品を聴いても響きが薄く感じられて仕方ないほどだ。
ブラームスは四つの交響曲を書いている。最初の交響曲で特に苦労したようで、書き上げるのに約二十年もの歳月を要している。
これは時間のかけすぎか? 決してそうではない。
この二十年の間、かなりの懊悩、逡巡があったはずである。
ベートーヴェンのように、ある意味交響曲という芸術領域を極限まで推し進めた人の後に、一体何が書けるのか?
その問いに対する答えが4つの交響曲である。
おそらく彼の同時代の作曲家たちは彼ほど時間をかけて作品を煮詰めなかったのだろう。
過去の作品群を未踏の山々に例えるなら、ひとりブラームスだけがその高さを、頂上に至る道の険しさを正確に把握していた。
他の作曲家は軽んじ、楽観視していた。故にある者は途中で遭難し、ある者は雪崩に飲み込まれた。
ブラームスは目標までの距離を見据え、十分な準備をして臨んだ。
作品数は少ないが、難曲ぞろいである。特に「第一」、「第二」の二曲は後半盛り上げていかなければならないのに、その盛り上げ方が難しい。なぜなら、「第一」「第二」の頃はまだ思索というよりも迷いというべき構造が残っているからだ。もちろん、それは芸術的な完成度が低いという意味ではないが。その難所をうまく切り抜けていけば、壮麗、壮大なクライマックスを築き上げることができる。
「四つしかないということで、一曲に集中することも予想されるが、とりあえず皆の希望を聞いてみようか」
「第四」を選んだのは古戸だけだった。
「なるほど、ほぼ均等に分かれたな。まあ、始まったころと違ってだいぶ人数も減ったし、こんなものかもしれないな」
「第四」はブラームスの交響曲の中で、最も哀しい曲である。美しく演奏すればするほど、哀しさがにじみ出てくる。この哀しみをどれだけ表現できるか、指揮者の腕の見せ所だ。
第一楽章、アレグロ・ノン・トロッポ。序奏はなく、ヴァイオリンの悲しげなメロディーではじまる。15小節目でクレッシェンドしていくところは若干のリタルダンドを伴って。オーボエが入ってフェルマータ。ヴィオラがピアノでleggiero(軽快な)、木管が追いかける。26小節目、弦楽器のスタッカート(音を短く切る)はアクセント。次のクレッシェンドはpoco a poco(しだいに、少しずつ)の指示だが、ここは反対に急激に。最初の1小節目でクレッシェンドを終わらせるつもりで。そして最後はこれまた急激にデクレッシェンド。次の弦のクレッシェンド、ここはそうではなく最初からはっきりと、フォルテシモ。4小節目でまた急激に、リタルダンドを伴ったデクレッシェンド。次はフォルテの指示だが、これは当然ピアノに書きかえる。少し遅れてフォルテ。全パートのクレッシェンドが来るが、これはいったん弱めて開始するのではなく、今までと同じ大きさからの開始。後半でリタルダンド、そして記号Bに入ったところで止める。ここからちょくちょく細かい休止を入れる。管楽器が次への橋渡しの役割をするが、指示通りのフォルテではなく若干弱め、メゾフォルテ。チェロによる慟哭のメロディー。ヴァイオリンに渡されて、美しさによりウェイトを置いた響きへその性格を変える。木管と弦が交代でスタッカートの旋律。最後はリタルダンド。木管の旋律、弦のクレッシェンドはなし。旋律が弦にわたって指示通りフォルテ、若干テンポを落として最後は軽くリタルダンド。再び木管からオーボエの旋律。全パートのピアニッシモによる妖しい響き、テンポはゆっくりと、そしてリタルダンド、休止。木管のメロディー、ma ben marc.(あまり目立たない)の指示だが反対に一つ一つの音をはっきりと。再び妖しい響きだがクレッシェンドしていき、弦と金管の何かを決断するような響きになる。木管が入り、弦の三連符にティンパニがかぶさる。全パートのスタッカートで締める。次の場面へ、木管の旋律が橋渡し。最初の旋律の再現、木管による落ち着いた変化。だがすぐにクレッシェンドして、激しい嘆きの旋律。三度ピアノの妖しい響き、木管主体でその気分を引き継ぐ。またまた弦の激しい旋律、それがおさまって木管の慰めるような優しい旋律が現れる。今度は最初の旋律を引き伸ばした妖しい響き。そしてその旋律の途中からの再現、弦のスタッカートは記号はついていないが同じくアクセント。次、フォルテはフォルテシモに変更。弦の泣きの旋律の後半はリタルダンドからスタッカートで一瞬の休止。今までの再現に入る。390小節目からクライマックス、そのまま最後まで断たれることのない悲劇。全パートクレッシェンドの後のフォルテシモでフェルマータ、休止。430小節目からのティンパニは救われなさを強調するためにもっとも硬いマレットで。最後はフェルマータで終わるが、その前は当然のごとくリタルダンドをかける。
第二楽章、Andante moderato(適度にゆるやかな中位の速度で)。雪道をひとり孤独に歩いていくようなホルンからオーボエ、ファゴット、フルートのメロディー。クラリネットとファゴットがsempre legato(常に滑らかな)で落ち着いた旋律を吹く。ホルンがそれを受け継ぎ、このまま落ち着いた音楽になるかと思われた矢先、クラリネットが警報を発する。が、すぐにもとの落ち着いた響きに戻り、ヴァイオリンに旋律が渡されて非常に美しい響き、それが哀しみの色を帯びていく。ブラームスお得意の立体的で美しい音楽。再び警報、立体的な響きと美しさはそのまま残しながら哀しみを加え、ブラームスの真骨頂が味わえる。木管のsmorz.(徐々に遅く音を弱めて)から終結部、最後は非常にゆっくりと長く伸ばす。
第三楽章、Allegro giocoso(おどけた、愉快な急速調)。実際はそれほど愉快な音楽ではない。というより、このがっちりとした構造からくる力強さを生かすには徒にテンポを動かさず締まった演奏にすべきだ。フォルテシモでの全体の合奏からの開始、そのままオーケストラ全体を使った厚みのある音楽。52小節目、ヴァイオリンのgrazioso(優雅な、優美な)短い旋律、89小節目で再び全体での合奏。しだいに落ち着いていき、177小節目の全体でのピアニッシモは若干長くのばす。Poco meno presto(わずかに急速調より遅く)での木管主体の旋律は落ち着いた気分を出す程度にテンポを落とす。もとのテンポでフォルテ、全体での合奏。あとは力強い部分と優雅な部分が交互に来て最後を迎える。
第四楽章、Allegro energico e passionate(激烈な、そして情熱に動かされた急速調)。だが、ここは違う。情熱的というよりも哀しみをいっぱいに出したこの音楽は、普通のテンポでいくべきだ。時間が経てば経つほど、この楽章の構成による効果で哀しみが増幅されていく。この楽章はまず管楽器の八つの音による主題の提示があり、あとはこの主題のさまざまな変奏で成り立っている。言ってしまえばじつに簡単な構造だが、ブラームスの精緻で力に満ちあふれた構造はその音楽を「簡単」なものにしていない。57小節目で少しテンポを落とす。そのあとも音楽の落ち着きとともにリタルダンドをかけ、97小節目からのフルートのソロはゆっくりと。その寂しさにあふれた旋律を木管が受け継いで、少し慰められて、トロンボーンの柔らかいピアニッシモ。全体でその気分を引き継いでリタルダンド、最初の音楽に舞い戻る。ホルンの壮麗な響きが終わったところでテンポを落とし、弦と管のスタッカート。途中心休まるところもあるが基本的には哀しみの音楽、253小節目からいよいよ終結部。もとのテンポに戻るが、260小節目で休止。ゆっくりとしたテンポで再開、ごくわずかにアッチェレランド。トロンボーンの旋律でもとのテンポへ。301小節目で急にテンポを落とし、非常にゆっくりと。終わり4小節前で最後の休止をした後、フェルマータで全曲を閉じる。
ブラームスもまた、バッハの後継者だったのか。この第四楽章を聴くと、特にそう思う。
もしバッハの時代に交響曲があったら、あるいはこの「第4」のような曲を書いていたのかもしれない。
「今、指揮のこと考えてただろ?」
いつものSPOCAにて。
「え?」
「この曲のこの部分の演奏はこんなふうにだとか、表現はこうだとか」
「・・・まあね」
「君は本当に分かりやすいな。自然と顔に出るね」
「そうか?そんなに違うもんかな」
「指揮のことを考えてるときは、いつも表情が険しくなってるよ」
「まあ、余裕なんかこれっぽっちもないからね」
「交響曲はちょっと違うかもしれないけど、ブラームスといえば人を慰める音楽だね。新約聖書の『悲しむものは幸いである、彼らは慰められる』という一節を思い出すよ。特に室内楽とか、ピアノ協奏曲の2番とかね。ただ特に室内楽なんかは本当に寂しさを経験した人でないと良さがわからないと思うけど。普通の人が聴いても、これといって特徴のない単調な音楽にしか聞こえないだろうね。反対に、心底寂しい人にとっては一生物になる。チェロやクラリネットなんかの、あの地味な音色が、まるで親友が自分の心に響く慰めの言葉を語りかけてくるように聞こえるからね」
「なんかの雑誌に『孤独を感じる人の生涯の友となる音楽だ』なんて書いてあったっけな」
「そういえば、左手のためのシャコンヌだったかな?バッハのBWV1004をピアノ用に編曲したやつだけど、あれも凄く寂しい響きというか、過去の思い出を懐かしむような響きなんだよね。聴いてると昔の思い出がセピア色とともに甦ってくるよ。その『色』がもともとのバッハの作品にあったものか、ブラームスの編曲で付け加わったものかは分からないけど」
「あ、編曲ものなら俺も好きなのがあるな。作品18の2楽章をピアノに編曲したの、あれは本当にグッとくる。もともとのヴァイオリン6重奏よりもピアノ編曲版のほうが味が濃くて好きだな」
「今回は君、『第3』を選ぶと思ったんだけどな。室内楽の手法をそのままオーケストラに拡張したような音楽なんで、ブラームスの特徴が凄く表れてる作品だと思ったんだけど」
「いや難しいよ、あれは。自分の特徴を出しにくいし、そもそもそんなことが許されるかどうか分からない曲だし。それに村眉さんがやるから、最初から考えてなかったよ。あの曲を村眉さんみたいな人にやられたらちょっと敵わない気がする」
「そういえば村眉さん向きかもしれないね、あの曲は。・・・うーん、この生姜入りサバー・ティーもなかなかだね。体が温まるよ」
「こういう季節に飲むなら良さそうだね」
「君の飲んでるマテ茶、本当は砂糖をどっさり入れるらしいよ。なんで砂糖抜きにしたの?」
「いやだって、お茶に砂糖を入れるなんて、日本人の感覚じゃとても・・・。この独特の茶器もそうだし、お茶っ葉の量もどっさり、お湯よりお茶っ葉のほうが多いよ。ぬるま湯で飲むってのもそうだし、この濾し器がついたストローで容器から直接飲むのも・・・。地球の裏側だけに、何もかも日本と正反対の感覚だなあ」
「第4」の練習日、アンコール曲に選んだ「ハンガリー舞曲第5番」の練習もあわせて行った。
クラシック音楽を聴き始めたころは、この「ハンガリー舞曲」のようなきれいなメロディーを持った曲に多くの人が惹かれるだろう。古戸もその例外ではなかったが、同時にこの曲には不満を持っていた。何で途中で、わざわざ遅い部分を入れてそれまでの流れを切ってしまうのか。
そのころ漠然と思っていた不満、しかしその不満も、しばらくして交響曲などを聴くようになると忘れてしまい、やがてハンガリー舞曲の存在自体も遠い過去の記憶となっていった。
ふと、あることに気がついた。
そうだ、理想の演奏を自分で実現すればいいじゃないか。そう思いついた古戸は、今回のブラームスの演奏会でそれを実行することにした。
この「ハンガリー舞曲」は、それこそテンポ一定でどんどん流していく。アンコール曲だし、楽しさ優先、気持ち良さ優先でいいだろう。
練習を順調にこなし、本番を迎え、指揮し、楽屋に消える。
「先日はよかったじゃないか。もう指揮者が板についてきたな」反省会をかねた演奏後ミーティングで、今江が古戸に話しかけてきた。
「ありがとうございます。舞台に立つともちろん緊張はするんですが、その緊張する自分を客観視できているような気がします」
「ふうむ、離見の見すなわち見所同心の見だな。いやこれはちと誉めすぎか」
「どういうことですか?」
「『花鏡』の中の一節だよ。意味はまあ、知りたいなら自分で調べてみることだが・・・なるほど、その辺の知識はまだまだか。まあ学生だから仕方ないな。ただ統率力はなかなかのものがある」
知識や技術に関しては自覚している。統率力・・・古戸はそれについて今まで意識したことがなかった。というより、オーケストラを統率する、という意識がなかった。今まではとにかく、自分の理想の実現のために、さまざまな指示をオーケストラに出すだけで精一杯だった。統率力なんてものが自分にあるのかどうか、わからない。
「もっとも、統率力なんてものは現象面に過ぎぬかも知れんな。だから、君は今私が言ったことを気にしちゃいかんぞ。真に受けて自分はリーダーシップを発揮していると思ったり、気にしすぎて譜面をただなぞるような指揮になるなどもってのほかだ。日日これ好日」
(だったらそんなこと言わなけりゃ良いのに・・・)
「みんな、集まったかな」篠堀と目蹴部が室内に入ってきた。
「今回ブラームスを指揮した皆お疲れさん。ここにアンケートの結果もある。後でゆっくり見てもらうとして、ちょっと早いが次のテーマを発表させてもらう。次はマーラーだ」
「マーラーか・・・それなら、今回はスキップします」村眉が発言した。
「お前は去年もそうだったな。マーラーは趣味じゃないということか?」篠堀が問いただした。
「正直言って、作品の存在意義をまだ、掴めていないので・・・どうもマーラーの作品は、断片的にはとてつもなく綺麗な音楽がある一方で、全体としてそれを生かしきれておらず、無駄が多いような感じがするんです」
「僕は、『大地の歌』にします」柄谷がいった。
「ふむ。それぞれもう考えは決まっているようだな。『大地の歌』は非常に長大だが、やれるか?」
「マーラーといえば歌曲の要素と交響曲の要素の二重性が特徴ですからね。『大地の歌』はそんなマーラーの真骨頂とも言うべき作品なので、やらないわけには行きません」柄谷が答えた。
「どっちつかずと言うことじゃないのかな、それは・・・主旋律の野暮ったさにはとても我慢ができない・・・あ、失礼」村眉が思わず呟いた。
「あんまり自分の意見を他人に押し付けるものじゃないぞ、村眉。確かにマーラーは従来の枠組みからは外れた位置にあるからわかりにくい作品ではあるが、いったんその響きの美しさに気づけば非常に魅力的な作品が多いのも事実だ。例えば第十番はまさに彼岸が見えている人にしか書けない、美しくもありまた恐ろしくもある音楽だ。また第八番などはマーラーの魅力を知り尽くした人にとっては堪えられない作品なんだが、・・・まあこれ以上は趣味の領域だから抑えておくが」目蹴部が嗜めた。
「ハハ、まあ予想通りではある。マーラーに関しては大抵、全て気に入るか全く受け付けないかの両極端な反応になるからな。他の作曲家ならばある曲は素晴らしいがこの曲は良くないという風に作品ごとに評価が分かれるものだが。そのあたりがマーラーの特殊性ともいえる」今江の解説。
「マーラーの場合は交響曲ではなくむしろ種種雑多な絶対音楽の集合体と見るべきかもしれませんね。そう思って聴けばなかなか美しい音楽ですね」普段はどちらかといえば寡黙な久那津も珍しく口を挟んだ。
「ベートーヴェン以後は基本的に標題音楽という思い込みがあるかも知れないな。特にマーラーの場合は自分で標題をつけたりしているので当然そう考えてしまうが」
「まあその気持ちも分かる。おそらくここにいる皆の大部分のマーラーに対する印象は次の通り。すなわち冗長、唐突、支離滅裂。だが人生経験を積み重ねていけば音楽の印象も変わる。希望を失った人間にとっては、むしろその冗長さが心地良いものだ。無駄でしかないと思っていたものに秘められていた意味がわかるようになる、と言えば良いかな。人生に絶望するという経験はそう日常的にあるものじゃないし、マーラーが他の作曲家ほど顧みられないのは結局そこなんだろうな。ただそれは裏を返せばこの社会が健全であることの証明でもあるかもしれない。マーラーを大衆が聴くような社会というのはやはりちょっと病的な感じがするからな。・・・マーラーをつまらなく感じるのは、未だ疲れを知らぬ若者の特権だな」
「実はモーツァルトにも、そういうところがあると思います。今年の6月の演奏会でも25番や40番を選ぶ人が多かったように、若いうちは分かりやすいドラマティックな作品に惹かれて他は退屈な、単なるおまけのようにしか思えないでしょう。モーツァルトの音楽は予定調和のようでつまらないとか、同じような曲ばかり書いて、結局モーツァルトの作品というのは、あれはモーツァルトの頭に鳴り響いた主題の単なる変奏曲だなんていう人もいるようですね。でも、好きな人にとってはそれが堪えられない魅力となります。どんな人にモーツァルトが『響く』かといえば、的確に表現するのは難しいが例えば、思い通りにならない現実に疲れた人でしょうかね。K595なんかはまさにそんな世界でしょう。予定調和が欲しい人のための音楽というか」今江と目蹴部の、意味深長なやり取り。
「で、君はどうする?」目蹴部が古戸に聞いた。
「・・・ちょっと考えさせてください」
「じゃあ、今週末までに知らせてくれ」
帰り際、瑠非違使につかまった古戸は、そのまま「SPOCA」まで「連行」された。
「次はマーラーだってな。どうするんだ?」
「相変わらず情報が速いな。でも・・・、正直言ってよくわからない」
「わからないって、なにが?マーラーが?」
「『死』を意識した音楽だということはなんとなくわかるけど、それも部分的なもので、全体の印象は散漫、冗長。どうも推敲途中の作品って感じで、だいぶ水脹れしてるかな。他の作曲家の作品に比べるとやっぱりちょっと落ちるというか、はっきり言って完成度は低いとしか言いようがないね」
「なるほどな、君らしいね。マーラーの場合はそれまでのものと違って各楽章間のつながりも希薄だし、統一された標題を持っているのは『大地の歌』と、・・・後は終楽章がちょっと弱いけど『悲劇的』ぐらいか。じゃあ、スキップするのか?」
「せっかくだから、何枚かCDを聴いて、それで検討してみるよ」
瑠非違使と別れた後、忘れ物に気づいた古戸は、練習室に戻った。
扉を開けた。
中には一組の男女がいた、女は男の両肩に手を乗せ、かかとをあごを少し上げ、男は女の腰に手を回し、抱き合って、キスしていた。
「うわぁ!」思わず古戸は大声を出してしまった。
古戸の声でまず倉石が古戸の方を向き、驚きの表情を露にした。一瞬の間を置いて目を閉じていた真久田が目を開け、ゆっくりと古戸の方を見て、驚きのまなざしをして両手を口に当てた。
「ごめんなさい!」と言い残して古戸は扉を閉め、小走りにその建物を後にした。
帰り道、古戸はずっと足が震えていた。
家へ帰っても、落ち着かない。食欲もわかない。
いつもならむさぼり食べるような好物も、受けつけない。ようやく手をつけたのは3分の1ほどだった。
布団をかぶる。
眠れない。
もう数時間経っただろうか。時計を見る。
・・・・・さっき時計を見てから十分しか経っていない!
・・・なんでこんなに時間が流れるのが遅いんだ・・・
朝までその繰り返しだった。
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
<右大将道綱母>
何で、こんなことになってしまったのか?
いや、何で俺はこんなに動揺しているんだ・・・?いや分かっているんだ、そんなことは・・・だが何故、と問わずにはいられない、何故・・・?
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