紅葉が見事に色づいた、冬の入り口に立ったある日。
先の指揮者ミーティングの席で次のテーマがブルックナーに決まったが、古戸はどの曲でいくかその場では答えず、近日中に知らせることになっていた。
「自分の力不足を感じるなら、スキップしてもかまわないぞ」
そう目蹴部から言われた古戸だったが、彼は今回のテーマにもおぼろげながらイメージをつかんでいた。
ブルックナーは交響曲を9曲作っている。(ただし「第9」は終楽章が完成されないまま作曲者が世を去った)ほかにも「0番」などもあるが、普通は特に問題とすることもない。
ブルックナーの音楽は、神の音楽である。彼の交響曲はどれも、自然の美しさ、雄大さ、その自然の中で生活する人間の儚さ、そしてその人間や自然を越えた絶対者を感じさせる響きを持っている。「人知を超えた絶対者」を感じさせるという意味で、バッハの直接の後継者と言いたいところだが、これには異論もたくさん出てくることが予想される。それはそれとして、彼の作品の自然なメロディーには、思いやりとか、慈悲の心が感じられる。おそらく彼の人間性から来るものだろう。
また、ブルックナーほど生前にその作品が認められなかった人もいないだろう。認められなかったどころではなく、苦労して仕上げた作品が酷評され、ここはこうしたほうがいいだのといった「改造」の指摘も多数。当時のウィーン・フィルにはスコアを「演奏不可能」とされて突っ返され、また他人に自分の作品を「改悪」されて初演されたり。
それほどまでに多難だった作品なら、ひっそりと歴史の中に埋もれていってもおかしくなかったはずだが、今こうして我々にその存在を知られている。結局は長い時間をかけて認められる力を持っていたということか。
ブルックナーの交響曲から選ぶなら、「第4」なども研究のしがいがある面白い作品だと思うが、究極的にはやはり「第8」か「第9」のどちらかだろう。「第9」はブルックナーの集大成とも言うべき作品なので、完成度なら断然「第9」だ。ただ、「第8」には「第8」なりの個性があり、こちらもまた捨てがたい。
とはいえ、「第9」の美しさは半端じゃないので、まず「第9」から検討してみよう。
もういきなり最初からクライマックスだ。なんという美しさ、自然さ、響きの偉大さ。しかもそれが最後まで続くのだ。
おっと、思わず感動してスコアを見るのが疎かになってしまった。
これじゃ研究にならないな。今回は「第8」で行くか。
初めから、こんなにブルックナーが好きなわけじゃなかった。むしろ、最初に聴いたときの印象は「なんだこりゃ?」だった。キレもない、盛り上がるわけでもない、ただ単調な音楽が延々と続いていくだけ。そのときの演奏も悪かったのかもしれないが、そのときは自分の中では「問題とする価値もなし」の評価ができあがっていた。
昨年の冬に、受験を前に控えて風邪を引いた。
・・・・・な、なんだこの感じは、・・・腰の辺りからだんだん上に昇ってくる、生暖かいモノは・・・
・・・なんだか分からないが、ヤ、ヤバい感じがする・・・ヤバい・・・ヤバイ・・・・・・・!!!
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急いで布団の中に飛び込んだ。照明はつけっぱなしだった。それから朝まで、必死だった。あんなにも恐ろしい夜は初めてだった。もう自分がどうにかなってしまうんじゃないか、気が狂ってしまうんじゃないか、これで自分の人生が終わってしまうんじゃないか。本気でそう思った。
布団の中で震えながら一睡もできずに朝を迎えたとき、ようやく少し安堵感が生まれ、そのまま昼まで眠った。
目を覚ましたとき、世界が変わった。いや正確には、自分の中での世界が持つ意味が変わった。今まで何の疑いも持たなかったこの世界。そしてその中で生きている自分。
いつかこの人生にも終わりが来るんだなあ・・・・・・・
窓の外の枯れ木を見ながら、初めてそう実感した。
結局人間は一人ぼっちなんだ。そう思うと、涙が止まらなかった。
それから約二週間の間、一歩も家の外に出られなかった。何もできなかった。
あの当時、とにかく何か「助け」がほしかった。持っているCDの中から、自分を助けてくれそうな音楽を片っ端からかけていった。ベートーヴェンの「第9」の終楽章などは、百回以上聴いた。
最悪だったのはマーラー。逆療法のつもりで聴いてみたのだが、「第1」の第二楽章を聴いたときは、死神がすぐそこまで来ているような気がして、全身の毛が逆立つような恐ろしさを味わってしまった。次に意識を失ったら二度と目を覚ますことはできないかもしれない、そんな妄想にとりつかれた。それでまたしばらくは、朝日を見るまで眠れなくなってしまった。
その中で、ブルックナーの音楽はその当時の自分の数少ない友となっていた。
あれから半年以上の月日が過ぎようとしている。俺の中で、あの体験は「消化」されているだろうか。―――――――少なくとも、あのときの恐怖を冷静に顧みることはできる。一片の無常観とともに。
ブルックナーを指揮するときのポイントの一つは、フォルテシモで終わる最後の一音をメゾフォルテくらいで鳴らすことだ。フォルテシモのまま終わってしまうと非常に乱暴な印象になってしまうし、次へのつながりという点でも問題がある。スコア至上主義の人からみればこれはかえって問題があるかもしれないし、結局これは昔ブルックナーに対して「改造」の指摘をした人たちとなんら変わりのないことをしているのかもしれないが、「音楽的に見てどちらがよい演奏か」という観点から考えた、これが今の自分自身の結論だ。
「第8」は、非常に多種多彩な、しかし一貫して自然と神を想起させるメロディーの集合体と言っても良い構造になっている。この各々のメロディーを生かすテンポをそれぞれ決定していかねばならない。結果として、恐ろしい数のテンポ変更をこなしつつ、そのいずれもが無理を感じさせないようにすることが目標となる。
「第8」のスコアの研究に入った古戸に、意外な壁が立ちはだかった。ドイツ語の指示がやたら多いのである。正直古戸はドイツ語が苦手であった。「第9」のときはそれほど感じなかったのに、いや、単に見えていなかっただけかもしれないが、この多さときたら・・・。
とはいっても、いったん「第8」でいくと決めた以上、そんなことで引き下がるわけにはいかない。古戸はドイツ語の辞典と首っ引きになりながら、スコアを追っていった。
第一楽章、アレグロ・モデラート。低弦の重い音から入る。金管の輝かしい響き。ヴァイオリンがbreit und ausdrucksvoll(のんびりした、そして表情豊かな)、盛り上がって落ち着き、再びヴァイオリンの同じ旋律、今度はbreit und markig(のんびりして、かつ力のある、がっしりした)。オーボエのhervortretend(明瞭になる、明らかになる)。低弦のピチカートからホルンのsehr ausdrucksvoll(非常に表情豊かな)。同じような旋律を繰り返しながら全パートが入ってくると、ホルンにimmer etwas markiert(常に多少軽く流す)だ。これはどういう意味だろう。同時にポコ・ア・ポコ・クレッシェンドの指示が来ているが、あまり目立たせないという意味だろうか。全パートでFeierlich breit(荘重でのんびりした)響き、すぐにbewegter(激動の)との指示は、ほんのわずか急がせる感じか。またすぐbreit(のんびりした)に変わり、全パートの壮大な響き。それが終わってコントラファゴットはgewohnliches(普通の)三本のファゴットに変わる。木管と弦がクレッシェンドしていき、装飾的にトランペットがsehr leise(非常に小さい)、そしてimmer leise(常に小さい)。フルートのソロはhervortretend immer fort(常に明瞭から遠ざかって)、意味がわからない。強さの指示のメゾフォルテでいいだろう。管、弦それぞれの、下降する音の旋律、フォルテシモ。終わるとヴァイオリンが、zart gestrichen(繊細に弾く)とetwas hervortretend(多少明瞭に)と同時に二つの指示。終盤、コントラバスだけにohne Anschwellung(膨張なしで)の指示。弦楽器の他のパートはクレッシェンド、デクレッシェンドがついているので、特にそのことに注意を喚起したものだろう。
第二楽章、アレグロ・モデラート。ヴァイオリンの序奏から入りすぐにヴィオラとチェロの旋律。コントラバス、木管と加わってきて全体での合奏。動から静へと移り、G Saite(G弦)のヴァイオリン、木管と弦で静から動へ移る準備。最初の旋律を再現しトリオへ。Langsam(遅い、ゆっくりした)だがあまり極端にする必要はない。後半、sanft hervortretend(柔らかな明瞭さ)のホルン、ハープが入る。物悲しさを伴った弦の響き。ブルックナーの作品にしばしばあらわれる自然の中に取り残された人間の寂しさのような音楽を奏で、この楽章の最初に戻る。
第三楽章、アダージョ。Feierlich langsam;doch nicht schleppend(荘重に遅く、にもかかわらず緩慢でなく)弦のピアニッシモで入る。ヴァイオリンのzart hervortretend(柔らかい明瞭さ)の旋律、そしてそれはbreit gestrichen(のんびりと弾く)へ。全体でのフォルテシモの後、暗いヴァイオリンのbreit und markig(のんびりと、そして力強く)、さらに弦がlang gestrichen(長く弾く)だが、別段テンポを落とすところでもないので、テヌートのような意味か。ハープへ引き継ぐ。その暗闇から夜明けまでを描写したような音楽を再度繰り返し、Violin Solo von Dreien(三艇のヴァイオリンによる独奏)だが正直ここは低弦の旋律が主役だ。金管の郷愁を誘う響きが入り、また低弦がlang gezogen(長く引き出した)、これも要はテヌートだろう。次がLangsam(遅い)だがもうすでに遅いテンポなので、変えずにいく。a tempo(wie anfangs)(もとのテンポで、始めのように)、音楽も一瞬はじめに戻る。変化して低弦はimmer deutlich hervortretend(常に明白な)。盛り上がって低弦はgestrichen(弓で弾く)だが、意味不明。弦楽器主体の寂しい音楽が終わり、フルート、クラリネット、ヴァイオリンソロでnachgebend(緩む、弱る)。テナーチューバがloco(原位置で)とのことだがこれも意味不明。金管主体の、隠された神秘が明かされるような音楽の後、ヴァイオリンの旋律はsanft und zart,sehr gesangvoll(柔らかくそして繊細な、非常に歌うように)、そしてヴィオラの伴奏はdeutlich hervortretend(分かりやすく明瞭に)。だんだん盛り上がり、トロンボーンと低弦はmarcato(強調された、目立つ)、全体でフォルテシシモ、Etwas bewegter(波乱に富む何か)。ハープがその頂点の音符を演奏し、弦楽器のsehr markig(非常に力のある)。またハープ、そしてヴァイオリンのrecht innig,sanft(本当の密接な、穏やかな)、ホルンとクラリネットが入ってヴァイオリンはmoglichst G Saite(可能ならG弦で)。落ち着いていき、この楽章の最後、金管はzart markiert(柔らかくざっと行う)。
第四楽章、フィナーレ。Feierlich,nicht schnell(荘厳な、速くない)音楽がしばらく続く。弦のLangsamer(ゆっくりした)、markig(力のある)旋律。管楽器に旋律が移り、noch langsamer(依然としてゆっくりした)。ティンパニの打音を残して消え、弦はnicht gebunden(レガート〔タイ〕でつながない)、重いが遅れることのない足どり、最後はlange Pause(長い休止)。Feierlich,innig(荘厳な、密接な)音楽が続き、Erstes Zeitmass(最初のテンポ)での合奏、すぐにetwas breiter(幅広い何か)、ヴァイオリンはruhig(静かな、動きのない)。全体でフォルテシシモ、終わってピアニッシモ、Imitationen hervortretend(模倣〔あるテーマを声部を変えて反復すること〕明瞭)、またまた意味不明。神の世界から自然界へと音楽が降りていき、これが最後のクライマックスであるかのような音楽。低弦がdoch hervortretend(だが、しかし明瞭な)、これだけではなんだかわからないが、ピアニッシモの指示もきているので「弱いがはっきりと」という意味だろう。いったん治まって、弦楽器はallmahlich an Starke immer anwachsen(次第に常に増大する強さをもって)。ティンパニの暗い響きから、viel langsamer(おおいにゆっくりした)弦楽器の旋律、次第に盛り上がって頂点で一瞬langsam(遅い)。再びティンパニの曙のような暗い音、今度は本当の終結部。全体のフォルテシシモで壮大に鳴らして終える。
一通り終わったところで、古戸は愕然とした。全体をどうまとめるべきか、イメージが全くわかないのである。
こんなはずでは、なかったのだが・・・。自分の語学力のなさも影響しているのだろうが、どうも音楽に一貫性がないというか、部分部分でギクシャクしてしまっているように、古戸には感じられた。
「失敗」の二文字が、頭にちらついた。
練習日前日、古戸が「SPOCA」でお茶を飲んでいたところへ、示し合わせたわけでもなく「予定通り」瑠非違使が入ってきた。
「今日は・・・WRPダイエットティー」
「ダイエット?気にしてんの?」
「いや別に、試しに頼んでみただけ。君は?」
「トン・チーって読むのかな、これ?試しに頼んだだけ」
「うーん、このハーブリーフの香りがいいねえ。味は・・・仄かな甘みがあるな、本当にダイエット効果があるのかな?まあでもレモンティーみたいな味ですごく飲みやすいね」
「俺のほうは・・・まあ普通の紅茶だな、ちょっと癖のある」
「昨日、変な夢を見た」
「夢?」
「ベートーヴェンの『第5』を指揮していたんだ。なぜか合唱団もいたけどな。
第3楽章まではうまくこなして、終楽章でオーケストラは休止し、合唱だけの場面。合唱がデクレッシェンドしていって、消える。
そして、さあ再開と思って腕を振ったら、誰もついてこない。聞けば始める場所が分からないという。
俺も別に知っていて腕を振ったわけじゃなくて、さあオーケストラの皆、よろしくといった感じで始めただけだった。
急いでスコアをめくって、該当箇所を探す。沈黙が流れる。スコアをめくる音だけが会場に響く。
もうだめだと思っていたら、突然合唱がピアノで歌いだす。見ると、遠くで合唱指揮のおじさんが振り始めている。しかも、おじさんの方もこっちを見て『おい、ここは俺がうまくやるから、今のうちに何とかしろ』みたいに二回ぐらい頷くんだよ。俺はそれに合わせて振って、何とか立て直す。妙にリアルな夢だったよ」
瑠非違使は爆笑した。
「なんだそりゃ・・・。合唱が出てくる時点で既に『第5』じゃないし。むしろ『第9』みたいだな」
「うん、音楽もそのときだけ『第9』っぽかった」
「・・・ところで、そのときの合唱はどんな曲だった?」
「宗教曲っぽかったけど、忘れちゃったよ。なんだか聞いたこともないような、荘厳な音楽だったけど」
「なんだ、惜しいな。憶えていれば、一曲いいものが書けたかもしれないのに」
「そのときは夢の内容が現実味がありすぎて、そんな余裕はなかったけど、今考えればもったいないことをしたな」
「明日が練習日だったな。今のところの出来具合はどうね?」
「全然、分からない。やってみないとなんともいえない」
「なんだ、ずいぶん心細いな。ブルックナーは今までと同じようには行かないって事?」
「ドイツ語がどうもね・・・スコアを研究する以前の問題かもしれないけど」
「そんなところで詰まってるのか。・・・どうしても行き詰ったらいろんな解説やなんかを参考にしてみたら?」
「・・・いや、やめとくよ。何回か振ってるんならまだしも、まだ一回も振ってないうちからそんなものを頼りにしているようじゃ、負けだと思う。自分の才能のなさを認めているようなものじゃないか」
「あんまり自分を追い詰めるのも、良くないと思うけど」
「そんなことするぐらいなら、いっそのこと全部オーケストラに任せたほうがいいよ」
「うん、いいんじゃないか?」
古戸は思わず瑠非違使の顔を見た。
「さすがにそういうわけには・・・」
「もちろん今のは冗談だ、半分な。ブルックナーだろ?だったら下手に手を加えないほうが上手くいくだろうってことだよ」
「うーん・・・」
「俺たちは翻訳家じゃない、音楽家だ。いくら正しく訳せても、音楽として魅力がなければ失敗だ。いい音楽をつくれてナンボ、聴衆を満足させてナンボということを忘れないようにな」
その日の夕方、古戸は久那津の指揮による練習を見学した。
なんという遅いテンポ、これほどまでに悠然と運んでいく指揮は見たことがない・・・。しかも、その遅さが理にかなっている。また、全体的に角が取れた、非常に柔らかいアタックを駆使した演奏だ。これも、下手をすればうるさく響くブルックナーの問題点を回避するのに役立っている。
現時点では久那津のような指揮はできないが、その指揮は大いに参考になるものだった。また瑠非違使の言うことももっともだと思ったので、今回の練習でも古戸は、スコアの指示を見ながらというよりも音符の流れ重視でいき、細かいところはオーケストラ任せというスタンスを取った。オーケストラも心得ていたものか、意外と練習はスムーズにいった。
演奏会でも、練習でやったことそのままではなく、そのときの流れにまかせて振っていった。
一人一人のお客さんが、この演奏をどう受け取ったかはわからないが、終演後の拍手は、やはり心地良いものだった。
考えるよりも、まず感じることか・・・。
忘れてしまっていた原点を思い出させてくれたような、今回の演奏会だった。
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