「ところで、このレプリカだが」ミロのヴィーナスの像を古戸達学生に見せながら、教授が尋ねた。
「君達、これが本当に美しいと思うかね?」
 沈黙が支配する。ある意味予想通りの時間が流れる。
「私の見るところ、上半身は確かに美しい。しかしこの、腰周りというか、ヒップラインがちょっと甘いとは思わんかな?」
 教授が続ける。
「これほどの像の作者なのだから、技術的に問題があってこうしか作れなかったということは、おそらくあるまい。ということは、何か理由があってこうなったということであり、ではその理由は何かと思考を進めることになる」
「当時の美意識で、このようなヒップラインが美しいとされていたのかもしれない。となれば、この像はその時代に拘束されているといえる。またはその反対に、私の見る目のほうが現代的な価値観に邪魔されていて、甘いという風に評価してしまっているだけかもしれない。西洋の絵画によくあるように、当時の西洋の女性というものはあのように腰が太い体つきだったのかもしれない。あるいは単に私の個人的な趣味や価値観が反映されているだけかもしれぬ。像の強度の問題で、芸術的な美しさを犠牲にしなければならなかったのかもしれない。あるいは、失われた2本の腕がその謎の鍵を握っているかもしれない、例えば、ここは隠れてしまうところなので凝る必要がなかった、または凝ることができなかったなど。・・・というふうに、固定観念で最初から『これは美しいものだ』と決めてかからずにまずは本当に美しいかと疑問を持ちながら見ることで、さまざまな着想、思考の種を得ることができる」





「だからさ、メンデルスゾーンは絶対ホームシックだったんだって!」
「SPOCA」で、珍しく古戸が興奮していた。
「・・・珍説だなぁ。そんなこと誰も言ったことないんじゃないか」
「その土地その土地での印象で曲を書いてるなんて、ホームシックでなければできないはずだ」
「あーもういいよ、分かったよ。いいんじゃないの、それで」
 瑠非違使の投げやりな態度に、古戸は不機嫌になった。
「何だよ、その言い方」
「君がそう思うのは勝手だけど、何か証拠があるのかい」
「彼の書き残した曲が証拠だ」
「・・・君の学科、卒論は必修じゃなかったよな?」
「それが何か?」
「では、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』とハイドンの『軍隊』で使われている主題の関係を論じよ」
「・・・なんだよ、いきなりそんな問題を出してきて」
「僕がピアノしか知らないとでも思ったかい。ちょっと甘く見すぎじゃないのか」
「・・・・・・・」
「大体、今度のテーマはメンデルスゾーンじゃないだろう。どうするんだ、シューベルトじゃ君の才能が発揮できないのか」
「もう考えてあるよ」
「考えてあるというより、選択肢がないといったほうがあたっているんじゃないの。『ザ・グレート』あたりだろう、どうせ」
「『ザ・グレート』、・・・曲を聴くといかにも無理をしているように聞こえるんだよな。シューベルトの限界、といったら言い過ぎかもしれないけど、ちょっとな・・・」
「ベートーヴェンを意識しすぎたのかね、あれは?じゃあ、『悲劇的』は?音楽はちっとも悲劇的じゃないけど」
「最初だけだな、悲劇的な感じがするのは。あとは普通のシューベルト」
「じゃあ『未完成』で決まりだね」
「うーん、・・・それにしてもここのスパゲッティは美味い。やっぱりイタリア産のものを使っているんだろうな」
「いいえ、トルコ産ですよ」と店員が笑いながら口を挟んだ。
「え、そうなんですか?」
「さっきから思ってたけど、君スパゲッティにチリソースかけすぎじゃない?」
「いや今日はなんか刺激のあるもの食べたかったんだけど、このサルサ・コン・チリ・ハバネロはそんなに辛くないんだよ。ハバネロってすごく辛い唐辛子じゃなかったっけ」
「別にハバネロを使ってるからって辛くなるとは限らないよ、ハラペーニョでも凄く辛いのがあるんだぜ・・・・・・・一番下の辛さ表示のところ、メディオに印が付いてるよ。そんなに辛いの食べたかったらムイ・フエルテにすればよかったんじゃない?それに、辛さを引き立たせてるのはむしろビナグレ、酢なんだから、バルサミコでもかけてみたら?」
「あー、気がつかなかった。スペイン語なんて分からないし」
「君は面白いねえ。あの論文を読んだときなんかここまで音楽を深く理解している奴がいるのかと思ったけど、さっきからの君の浅はかさといったら目の前の獲物に飛びつく動物みたいだ。その獲物に毒が入っているかもなんて、考えもしないだろう?ある意味すごく矛盾してるよ」瑠非違使が半分呆れて、鼻で笑った。
「・・・さっきの課題、必ず答えてやるからしばらく時間をくれ」

 シューベルトの音楽は、野山に咲く草花や空に浮かぶ雲に似ている。その存在があまりに自然、ありふれたものなので、却ってその美しさに気づく人は少ない。日本の古典がむしろ日本人にその真価を理解されにくいように、その存在が当たり前のようなものになってしまうと、対象を認識すること自体がむずかしくなる。
 彼は9つの交響曲を書いている。音楽で表現しうる美しさを追求した、混じりけのない清々しさが特徴だ。
 交響曲第8番「未完成」。その名のとおり、第2楽章までしか完成されておらず、あとは第3楽章の冒頭のスコアと、若干のピアノ用スケッチが残されているだけである。
 シューベルトはなぜ、この曲を未完成のまま遺していったのだろう。
 あいつなら何か知っているかな・・・

 あくる日のSPOCA。

「何飲む?」
「たまには冒険してみるか・・・テ・ヒジャウ・アスリ、かな?これにします」
「じゃあ俺は、・・・読み方分かんね・・・この、ド・ロゼラス?とか言うのください」
「どんなんだい、それ」
「下に説明文が書いてあるな、でも何語だか分からん・・・ああ、英語もあった。ハイビスカス、サブダリファは・・・メカー・ティー、レッド・ティー、ヤマン・ティーとも言うらしいよ。ビタミンCなんかの栄養豊富な・・・血圧やコレステロールの減少、調整・・・免疫機構の増強、体重を減らす、癌と戦う。1日2回飲むといいらしい・・・少し砂糖を加えてもいいらしいね」
「関係ないけど、今日の君のその服装、もうちょっとどうにかなんないの?俺的には、ズボンが白という時点でもう許せないんだけど」
「そんな事言われても・・・そんなに酷いかなあ?正直ファッションとかどうでも良いし」
「上淡下濃はファッションの基本だよ。芸術とファッションは別物だとは思うけど、どっちも美という同じ要素を扱ってるんだから、少しは気にかけたら?」
「でも、白いジーンズを穿いた綺麗な女の人を見かけたりするよ」
「もちろん今言ったのはあくまで原則だから。センスのある人ならその原則を破って新たな美を創りだすものだけど、言っちゃ悪いけど君、そんなセンスないでしょ?だから原則に従っておいたほうが無難ってこと。あと君、そのスラックスだったらシャツの裾を中に入れないと。カジュアルならカジュアル、ドレッシーならドレッシーで上下統一しなよ。ほんとめちゃくちゃだなあ」




「こないだ美術館に行って来たけど、美術館を出たあとはなんか世界の見え方が違うね。そこらへんの木々なんかの自然が妙に綺麗に見えたり・・・むしろ何で今までこういうものの綺麗さに気づかなかったんだろうって思うよ」
「現代美術になると、もうそれまでのものとは全く違うね。いきなり絵を見ただけじゃ何の絵だか全くわからない。絵だけでは成立してないというか。俺が観たときは2日かけてゴッホ、モネ、キュビズム展と美術館を梯子したから余計にそう感じたのかもしれないけど」
「あー分かる。ゴッホの絵って気持ち悪いよねえ。あんなのを自分の近くに置いておこうという人の気が知れない。何であんな気持ちの悪い絵を描いたんだろう。あれじゃ生前売れなくて当然だよ。あれを自宅に飾って毎日見るなんて、まさに狂気の沙汰だね」
「いや、初期の静物画はそうでもない、普通に綺麗な絵ばかりだよ。『ひまわり』とかは例外だけど。あの病的な気持ち悪さは、やっぱり黄色を多用しているところから来ているんじゃないかなあ。もうかなり精神を病んでないと黄色を特別美しいなんて言えない・・・しかもあの黄色、言ってみれば何か陰のある、病的な黄色なんだよね」
「以前北斎展にも行ったことがあるけど、原画は本当に小さいんだねえ。壁一面とはいかなくても、もっと大きいのかと思ってた。『神奈川沖浪裏』があんな小さいんじゃ、迫力も何もないよ。まあそんな小さい絵から衝撃を受けられる、当時の西洋画家の感性が逆に凄いともいえるけど」
「それはともかく、現代美術を見るときの俺のおすすめの方法は、まず題とか解説とかを一切見ずにいきなり作品を見る。その後に、題を見て、いわば『答え合わせ』をする。そうすると、ああこれは女性を描いてあったのかとわかる。確かに、そう言われれば描いてあるのに、言われる前は全く気付かない。その発見のギャップのようなものが面白いね」
「・・・・・まあそんなもんだろ。人間が美を感じるためには、まずは『これは美しいものだ』という意識を向けなきゃいけないし。どんなに美しいものでも、それを感じるセンサーがなけりゃそもそもその対象に美を感じないだろうしね」
「お、言ってくれるね。早速こないだの授業の成果が出たかな?まあ和歌に例えるなら、詩そのものと詞書に対応するかな、現代美術における作品と題は」
「おお、そう考えると和歌というのは現代芸術の最先端に当たるものを既にやっていたわけだ、一千年の昔に。使える字数を厳しく制限することによって」
「そこまで思考を飛躍させることもないと思うが、まあ詩そのものだけだとどうにでも解釈できるものの意味を確定させるというか、一定の方向性を与えるものではあるよね、詞書というものは」
「やっぱり現代性あるよ、いやもうそんなことは問題じゃないかな」
「それはともかく、ドローネーの『シベリア横断鉄道とフランスの小さなジャンヌのための散文詩』とかグレーズの『戦争の歌』なんかがそうだけど、従来の絵画では対象にならなかった、詩や歌といった他の芸術分野を絵画にしようという試みがあるのは注目すべきだね。絵画というものそのものからの逸脱というか、詩を絵画で表現する、歌を絵画で表現する、つまり・・・・うーん言ってみるなら、絵画で表現できる領域を拡張する・・・・」
「でも、それは音楽なら既にムソルグスキーが『展覧会の絵』でやってるよね。これは絵画を音楽で表現しているわけだ。その試みが成功しているかどうかは別として」
「や、そう言われればそうだ。よく考えたら交響詩なんてまさにそうだね、詩を音楽にする・・・・ただ彼にそういう芸術上の大きな流れを作ろうという意図は、なかったんじゃないかなあ。その証拠に、追随者が出てこずに、結局ムソルグスキーひとりの活動で終わっている。まあラヴェルがオーケストラ用に編曲しなかったらそもそも日の目を見ることもなかった作品だから、無理もないと思うけど。さっきのドローネーやグレーズにしてもそうだね。これが今後一般的になるか、注目してみようかな」



 注文したものが届いたとき、古戸は、自分が頼んだお茶のカップに熱帯植物の花のようなものが沈んでいるのをみて不安になった。それぞれ一口目を口に含んだ二人は、一様に後悔の表情を作った。が、深刻さの度合いは全く違った。
「・・・酸っぱい!何だこりゃ」
「どんな感じ?」
「梅干だよ、これ。他に言いようがない」
「色からしてそんな感じだね」
「そっちは?」
「うーん・・・要は緑茶なんだけど・・・日本の緑茶とはだいぶ味わいが違う、と言うか、ま、まず・・・」

「最近クラシック音楽と他の音楽の違いというか、クラシックの特性みたいなものをよく考えるんだ」
「お、そういう話?じゃあジャンルごとに、俺の考えを披露させてもらうか」
 待ってましたとばかり食いついてくるのは、瑠非違使にしては珍しいことだ。
「どうぞ」
「ポピュラー音楽は、基本的に1回書いたらそれっきり。見直すということをしない。だから表現も深まっていかないし、飽きられたら終わり。まあそれは悪いことばかりじゃなくて、だからこそわかりやすいし大衆の支持も得られる。その時代の雰囲気をうまく捉えたものが生まれやすい」
「その時代の感覚を鋭敏に感じ取るということは、裏を返せばその時代に拘束されるってことでもあるよね」
「まあ表裏一体だよな、そこは。それに古いものをどんどん飽きさせていかないと新進のミュージシャンがデビューできないし、そうやって新陳代謝を進めていかないと産業として成り立たなくなってしまう。ある世代に支持された曲の旋律の断片を次の世代向けの曲に再利用するなんてこともよくある話だからね。大体クラシックから素材を持ってきてるのだってたくさんあるし。回転をできるだけ速くして、全てのものを過去へ流し去ってしまうのは商業音楽の宿命というべき性質だね」
「ふーん・・・その時代と運命を共にするって感じか、良くも悪くも」
「ジャズは、まさに労働者のための音楽。一日の仕事を終えて疲れた体をカウンターに沈めて、ブランディかウイスキーなんか飲みながら聴くのがいい。あの奔放な音の塊がアルコールとともに体に浸み込んで来て、凝り固まった頭と身体を解きほぐす。自由な世界への憧れ、なんていったら余りに陳腐かな、そんな音楽だな」
「え、君、もう酒なんか飲んでるの?」
「・・・なーんてね、今のは全部親父の受け売り。あ、でも、ブラジルのジャズは結構良いな。南米ってなんとなく陽気で明るいイメージがあるでしょ?でもあの音楽からは、そんな要素は微塵も感じられないんだよね。むしろ、ホームシックになりそうなぐらい郷愁と言うか、懐かしさというか、切ない音楽で夏の夜なんかに聴いたらもう死んじゃいそう」
「あーピアソラなんかもそうだよね。あのせつなさ、たまんないね」
「民族音楽では、絶対に外せないのはブルガリアの女声合唱ね。一度聴いたらもうひっくり返るよ。君ももし聴いたことがなければ一度聴いてショックを受けたほうがいい」
「そんなに凄いのかい」
「音楽をやっててあれを知らないのはそれだけで損失だよ。そのほかにもアフリカの親指ピアノとか、インドのラーガとか、当たり前の話かもしれないけど世界各地に注目すべき音楽があるね・・・あー今思い出した。トリニダード・トバゴで聴いたスチールパンの演奏は本当に感動的だった。なんか体育館みたいな場所で反響がものすごくて、クラシック的な意味では最悪な音響の場所だったんだけど、それがかえって豊穣なスチールパンの響きを引き出していて・・・いや最高だったな」
「ロックなんかはどう?あのもちろん、狭い意味じゃなくてヘビーメタルとかデスメタルまで含めて言ってるんだけど」
「ロックは、・・・ちょっと特殊な位置にいるかなぁ。何か現状に対する不満を爆発させるというか、そういう目的を実現するための手段みたいな感じかな。他の音楽は聴くことそのものが目的だけどね。ただそうは言っても俺はやっぱり純粋に音楽そのもので成立してないものは聴く気がしないな、ロックだからといって特別扱いをするつもりはないね」
「何ていうかさ、大げさな言い方かもしれないけど、やっぱり音楽を極めようと思ったらクラシックが一番なのかな」
「理論の蓄積では比較にならないほど膨大な体系を持ってるし、作品の数もそう。でもクラシックだけで音楽の世界が完結してるわけじゃないし、むしろその時々の流行の音楽を取り入れることで新しい作品が生まれることだってあるし。大体クラシックばかりやってたら自家中毒を起こしちゃいそうだから、たまには他の音楽も聴いて『中和』した方がいいんじゃない?」
「そういえば、ショスタコーヴィチも当時産まれたばかりのジャズを自作の中に取り込んだりしてたっけ。あの人なんでもありだよな、ほんとに」




「・・・さて、口直しに次はこのサリ・メラティってのにしてみるか」
「俺はディルマー、かな?スリランカのお茶だから馴染みのある味だと思うんだけど」

「いやーこれは全然いい。さっきのとはえらい違いだ」
「ずいぶん良い香りがするね。紅茶とは思えない香りだ」
「アロマティーって言うのかね、味もまさにそんな感じ。そっちは?」
「うん香りもいいし、味もちゃんと紅茶の味だよ。安心のクオリティーだね」
「さっきのはもう二度と飲まん。ああいうのは一度だけなら経験するのもいいけど、一度だけでたくさんだね」
「そういえば、時間によって聴く音楽が決まってたりする?」
「それはあるね。朝方なら、ラヴェルや宗教音楽がいいかな。フォーレのレクイエムとかね。バッハのミサ曲ロ短調とかも…いや、それはちょっと向かないかな」
「ラヴェルだったら、やっぱり美しさを十分に出した演奏がいいな。女性にたとえるなら、顔立ちの整った、艶のある、色香漂う美人てところか」
「モーツァルトのピアノ協奏曲なんかも、午前中向きかな」
「モーツァルトといえば、交響曲の40番は愛しい人へ別れを告げる様子を映したような曲なんだよね。凄く好きだな」
「あと、ピアノ協奏曲の9番とか20番なんかは、時の流れの速さを身にしみて感じている人にとっては良き友のような音楽になるだろうね」
「お、さすがピアニストだね」
「別にピアニストじゃなくたってわかるよ。昼間は、特に休日に限定するなら、ハイドンとか、バッハのブランデンブルク協奏曲かな」
「冬とか春の午後の、太陽が山陰に隠れたような時ってブルックナーが合うと思うんだよなー」
「黄昏時には、グリーグやシベリウスなどの北欧の作曲家だね。ああでも、シベリウスは作品によるかな。交響曲の2番はまさにそんな感じ。1番とか6番なんかは朝にぴったりだし、反対に夜なら4番とかかな。なんかもうシベリウスだけで冬の1日を表現できるかも」
「あ、4番なら第1楽章をテーマにした3行詩を作ったことあるよ、英語で」
「へえ、どんなの?」
「A cloudy sky,

Air horn sound.」
「・・・・ほう」
「特に秋の、完全に日が暮れてしまったときなんかは矢代秋雄の『交響曲』が凄く心にくるよ。それも第3楽章」
「日本人の作曲家ということなら武満徹も挙げておきますか。でもあれだね、有名なのは和楽器を使った曲だけど意外と浅いね。音と無音の狭間を追求した、武満らしい繊細な音楽だとは思うけど。彼の最高傑作は『弦楽のためのレクイエム』でしょう。弦楽器の美しさを武満流に最高に引き出した、逸品です」
「なんていうか、死が目前に迫った人しか書けないって言う感じの、冷たい美しさがあるやつだね」
「あとは『海へ』も凄い。これまたギターとフルートの持つ寂寥感をこれでもかというくらい引き出して、聴いてて身震いするぐらい」
「あー、あれは怖いね。スペインの人気のない廃屋を思い起こさせる。スペイン行ったことないけど」
「はあ?」瑠非違使は苦笑した。
「まあ、あくまで俺の印象ってことで・・・・。何か楽しいことをしていてもその楽しさが感じられなくなるというか、人間の感覚を麻痺させるような音楽と言えば良いのかな」
「その武満が交響曲を書いたらどうなるかというのが例えば水野修考の交響詩『夏』かなあ」
「あとは山田耕作の長唄交響曲『鶴亀』とか、諸井三郎、橋本國彦とかが面白いね」
「現役の作曲家ではやっぱり新垣隆さんかな。何年か前の騒動で変に有名になっちゃってずいぶん誤解もあるみたいだけど、新垣さんの現代音楽の作品は傑作揃いだね。クラシックの技法で書かれた作品は創造的な部分はないといっていいでしょう、悪いけど。新垣さんの本領が発揮されてるのはやっぱり現代曲だよ」
「まあでも、そういう堅いことを抜きにしてただ楽しみたいだけなら、『現代典礼』も悪くはないと思うけどね」
「そうかあ?あれただの間延びした、だらしない音楽としか思えないけど。別宮貞雄みたいな」
「まあ前後にベートーヴェンとかブラームスとか聴いちゃうとね・・・・マーラーですらピシッと締まってる感じがするもんなあ。個人的には第2楽章の一部と、第3楽章の全般に手を入れたい感じかな。まあでもそんな堅いこと言わなくてもいいじゃん。別宮貞雄だって、疲れてる時とか、何も考えたくないけど何か聴きたいときなんかには重宝する」
「『現代典礼』を出すなら、それこそさっきの水野修考の交響曲の3、4番の方を推すけどねえ、俺だったら。3番にはクセナキス風の頭がおかしくなりそうな危険な響きが出てくるけど、しっかりと消化されてる感じはするし、全体としては凄く完成度は高い」
「クセナキス・・・・打楽器系の作品なら割と普通なんだけどねえ。どうしてあんなにイっちゃったもの書くのかなあ」苦笑交じりに古戸は呟いた。
「夜は、またモーツァルトになるけど、セレナードやディヴェルティメント。特に春から初夏にかけてと、秋の夜にとても合うね」
「いきなりだけど、読書のときに流すなら現代音楽に限るね。メシアンとか、あと十二音技法というか、無調のピアノ曲かな。ブーレーズの『ストルクチュール』とか、あんなの」
「そうかあ?むしろマーラーのほうがいいんじゃないの、それだったら。メシアンとかあの吐き気がしそうな独特の響き、そうそう聴く気にならないけどな。あ、学習時のBGMということなら、まあそうかな。シェーンベルクやウェーベルンのピアノ曲、ベルクのピアノ・ソナタ・・・・新ウィーン楽派のピアノ曲は真夜中に小さめの音量で聴くといいかもしれないね。あとフランクの交響曲なんかも意外といいぞ。モーツァルトのピアノ協奏曲も、優れた演奏なら学習の邪魔をせずに快適さだけを提供してくれるね。冬限定だけどシベリウスもだな。あの清冽な響きがいいね・・・あとは、さっき挙げたブランデンブルク協奏曲。そんで、疲れたらケージの『ある風景の中で』でも聴いて頭を休める、と」
「シベリウスは『静寂』を使うのがうまいよな。『第5』のフィナーレとか、『第2』の第2楽章の金管の主題が吹かれる前とか」
「やー、思い出してもぞくぞくするな。ああいう感覚を味わわせてくれる曲って他にないかもね」
「あれほど清々しさを感じる音楽も珍しいよな。それだけに演奏は超絶的に難しそうだけど」
「なんとなくそれは想像できる。ちょっとでも不純物というか、雑音みたいなのが入ったらもう終わりみたいな感じかな」
「正直今シベリウスをやれといわれても、自信ないね・・・そういえば、ここまでベートーヴェンが全然出てこないね」
「別に時間にあわせて聴くような音楽じゃないからね、特に交響曲は。まあでも第9だったら、まあ時間じゃないけど、12月24日、25日あたりが合ってるんじゃないか」
「クリスマスか・・・。冬といえば、ショスタコーヴィチは冬にぴったりの作曲家だな」
「そんなことはないだろう。むしろブラームスだろう、冬といえば。寒さが本格的になってきたときに聴くブラームスはもう反則だぞ。特に何か落ち込むようなことがあった時に交響曲の3番なんか聴いた日には、泣けてきてしょうがない」
「そうかな」
「まあ、ショスタコーヴィチに関して言えば、弦楽四重奏曲なんかそうだね。12月頃の日中、弱々しい太陽の光で昼間にもかかわらず冷えている、そんな感じの音楽だな」
「新年を迎えて数日くらいは、日中はバッハのオルガン曲が合うと思わない?それも、きらびやかな音よりも、暖かみのある音を使う曲が」
「さあ、どうだろう・・・ でも『目覚めよと呼ぶ声あり』で新年の朝を迎えるのは結構素敵かも。あとブラームスも、さっき言ったのとは別な意味で良いよ。年末年始の雰囲気に意外と合った曲が多い。ピアノ協奏曲の2番とかね」

 結局ただの雑談で終わってしまった。どうも俺はその場の雰囲気に流されるというか、特定の話題に誘導するのが苦手というか、・・・あーもういいや、今更仕方ない。
 さて、このシューベルトの残した「宿題」に、どう答えてやろうかな・・・・

「未完成」を一言で解説するなら、神秘的な音楽、続いて波乱が生じ、「魔王」のようなシューベルト独特の不気味さと美しさの入り混じった音楽。といったところになるか。
 まあいい。シューベルトだし、小難しい理屈は脇へどけて、とにかく綺麗な旋律と幻想的な雰囲気を楽しんでもらわなくちゃ。

 第一楽章、Allegro moderato(急速調よりも控えめに)。低弦のピアニッシモの旋律から始まる。ヴァイオリンの細かく刻んだ前奏、早くも神秘的な雰囲気が現れる。オーボエとクラリネットによって虚無的な主題が吹かれる。吹き終わると、ほかの楽器にfz(強調された)の指示がつくが、あまり大げさにはしない。ホルンが十分減衰したところでフェルマータ。再びオーボエとクラリネット、今度はフルートやファゴットなども加わって全パートがクレッシェンド、fzだがやはりやりすぎず。デクレッシェンドの後ピアノ、そしてクレッシェンドからフォルテを経てフォルテシモだがここも控えめに、丁寧に鳴らしてもらう。クラリネットとヴィオラ、コントラバスの伴奏でチェロの第2主題、ピアニッシモの指示だがこれは違う。フォルテで朗々と鳴らしてもらわなければならない。テンポはゆっくりと。イージーリスニングのような雰囲気になるがかまわない。ヴァイオリンへ主題を引き継ぐ。これも同じくピアニッシモではなくメゾフォルテで。高音部は音がはっきり聞こえるのでフォルテまではいかなくていい。デクレッシェンドを経て全休符、・・・なんだこれは、このスコアは文字がつぶれてしまっている。ケチらずに高いほうにすればよかったかな・・・まあ今更だな、フォルテシモに見えるがこれはフォルテとフォルツァートがくっついているんだろう。ここもやりすぎて汚くしてはいけない。その後もクレッシェンドも同様。弦楽器が交代で旋律を弾く、ヴィオラとチェロはフォルテ、ヴァイオリンはメゾフォルテ。全パートフォルテで弦楽器はスタッカート、特にヴァイオリンは美しく響かせる。さらにティンパニも入ってくるが厚みを添える程度で。記号Cに入る直前でリタルダンド。ヴァイオリンの美しい旋律はピアノから始まって途中クレッシェンド、デクレッシェンドが付いているが、これらは無視してはじめからフォルテで、この美しさを生かす。最後だけ若干デクレッシェンド。フルートとオーボエに引き継いで、終わったところで気持ちフェルマータ。フォルテシモだが実際はフォルテ、デクレッシェンドから弦楽器のピチカート、再び幻想的な雰囲気。リピートにたどり着くがリピートはしない。
 冒頭の低弦の旋律が再現されるが、そのまま音が下降していき、ヴァイオリンの怪しく、わずかに不気味な旋律。少しテンポを落とし、クレッシェンドしていき、管楽器が入ってフォルテ、ここは二小節ごとの一拍目に少しアクセントをかける。と言ってもいきなり大きく出るのではなく、急激なクレッシェンド、デクレッシェンドという感じだ。フォルテシモの直前でリタルダンド。デクレッシェンドはすぐにボリュームを落とす。次のも同様。
 170小節目から雰囲気ががらりと変わる。苦しみの音楽だが、ベートーヴェンのような響きではなく、あくまでシューベルトが基礎にある。記号Dからは若干テンポを速めて。ティンパニが入ってくるが、マレットは柔らかいほうがいいかもしれない。デクレッシェンドからピアニッシモで次なる波乱を予感させ、クレッシェンドのあと色合いを変えたフォルテシモ。ピアノで弦楽器と木管、デクレッシェンドは気持ち程度。フルートのメロディーはゆっくりと歌ってもらう。
 最初を再現する、ここでのつながりの見事さは驚くに値する。素直にシューベルトの才能を賞賛したいところだ。さらにいくつかの転調が続く、これも素晴らしい。ここからは前半を調を変えて繰り返していく。当然チェロの主題などはピアニッシモではなくフォルテ。285小節目からはゆっくりと、一歩一歩歩くような感じで。
 334小節目からは終結部。強弱記号はあまり大げさにすることはせず、あくまで美しく。364小節目のフォルテシモでテンポを落とし、最後はフェルマータ。

 第二楽章、Andante con moto(動きを持って、元気よく適度に緩やかな)。だがこの指示にあまりとらわれないほうがいいだろう。シューベルトの音楽自体が持つ美しさを出せたら十分だ。この楽章も強弱記号は控えめな意味にとる。フォルテシモはフォルテ、ピアノはメゾピアノといった感じだ。そして、ピアノではテンポは遅く、フォルテでは速く。すべてがこの原則で行くわけではないが、これを基本にすえる。
 ・・・・ほかは、特にこの楽章でやることはないな。後はシューベルトの書いた音符が存分に語ってくれる。そう考えると、この楽章は恐ろしく完成度が高い。「未完成」なんて言葉は、この楽章には似合わない。

 今回の「未完成」は短い曲なので、古戸はもう1曲、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲を使うことにした。

 この「こうもり」序曲は言うまでもなくオペレッタの開幕前に演奏される音楽だ。というわけで必要なところ以外は速いテンポで軽快に演奏される。それもこの曲が持つ顔の一つではある。だけど、いやだからこそ、演奏会用のプログラムとして使う場合には違った響きを求めるべきだ。この曲は実は、重厚な響きが似合うという別の顔を持っている。

 Allegro vivace(生き生きとした急速調)の開始だが、むしろ豪勢な感じを出すためにゆっくりと。弦楽器は羽毛が空中に舞うような高揚感を持って。Allegretto(やや快速な調子)の指示、ここもゆっくり進める。Tempo I Lento(はじめのテンポ、遅く)はその通り。鐘はin E basso(ホ音低音部を使って)鳴らす。全パートにstring.(だんだんせきこんで)の指示だが、テンポはこのまま、クレッシェンドのみ。次のアレグレットも無視。Meno mosso(あまり速くない)、むしろ遅く。ヴァイオリンはgrazioso(優雅な、優美な)。低弦にBassl・・・何のことか分からない。フルートとヴァイオリンはleggiero(軽妙な)、その次全パートにa tempo(遅れずに)。フルートのパートにFI.e Picc.(フルートとピッコロ・・・FIはFlの誤記だろう)。Tempo di Valse(nicht zu schnell)(ワルツの拍子(速くするためでない))・・・これってイタリア語とフランス語とドイツ語が混ざってるのか?こういうの本当にやめてほしいんですけど。脇に辞典を3冊置いて読む方の身になってほしい。(rit.)(a tempo)の指示は括弧付きなので無視しても良いものだ。無視してそのままのテンポで進める。Andante con moto(動きを持って適度にゆるやかな)だがむしろ音符の持つ表現を十分に出して。フルートとオーボエにespressione(表情豊かに)。Allegro molto moderato(急速調おおいにモデラート(アンダンテとアレグロの間の中ぐらいの速度で))、現実的なのは若干アッチェレランドをかける事だろう。marcato(強調された)、G.P.(総休止)。Tempo ritenuto grazioso(急に速度を緩めて優雅なテンポ)。括弧付きのフェルマータ、これも無視。(rit.)は無視せずにゆっくりと、4拍目で一瞬フェルマータ、(a tempo)は急に戻すのではなく弱くアッチェレランド。一つ目の音符も一瞬フェルマータ。Piu vivo(もっと生き生きとした)だがこれはテンポを速めるという意味ではない。むしろ雄大な響きを出すためにゆっくりと。最後はさらにリタルダンドをかけて締めくくる。


 練習日、パート練習を終えたオーケストラのメンバーが練習室に集まってきた。
 チラッと真久田のほうを見る。視線をはずしてから、彼女もこちらを見た。

 練習中、引き寄せられるようにしばしば視線を交錯させる。
 視線を外そうとしても、すぐにまた吸い付くように。
 このままではいけない、と、最後は強引に引き離した。
 それらは一瞬の出来事であったはずだが、随分長い間のことにも感じられた。

 宝石のように輝く瞳。女性特有の、なんとも抵抗し難い香り。
 黒くしなやかな髪が、窓から入ってきた風になびく。瑞々しくキメの細かい、いかにも柔らかそうな弾力性のある肌。やわらかい身体の線、特に腰回り、あのミロのヴィーナスよりも美しい・・・。どうしてだろう、今まで気にも留めていなかった、人間が持つ美しさに急に目覚めたのは。
 ふと、何か美しい絵画か彫刻でも見ているような錯覚に襲われた。
 ・・・いや、本当にどうしてしまったんだ、今日の俺はおかしいぞ。俺は絵や彫刻に関心を持ったことなんかない。どうでもいいんだ、そんなものは・・・それとも、これからはそれでは駄目だというのか・・・
 最近の彼女は演奏に自分の感情を反映させているように見え、また聞こえるが、今日のシューベルトは大げさすぎるくらいだ。正直オーケストラから浮いて見えるが、そのことを咎める気にはなれなかった。

「そんなに肩肘張らなくていいよ、真久田君」休憩時に、倉石が真久田に声をかけた。
「ソロならまだしも、パート全体で音を出すわけだからね。でも、その気持ちは凄く大切だ。素晴らしいよ」
「真理ちゃん最近変わったよねー。昔は音符を素直に音にする感じだったけど、今日の演奏なんかエスプレッシーヴォの極みだよ」別のヴァイオリン奏者も割って入ってきた。

 世の中に 恋てふ色は なけれども 深く身にしむ ものにぞありける
                                 <和泉式部>

 次の日、久那津指揮の「ザ・グレート」の見学。

「やられた・・・」
 古戸は、思わず口に出して呟いた。
 信じられないほどの柔らかい演奏。常識的な「グレート」の硬さなど微塵もない。これがシューベルトが本当に言いたかったことなのか。

「あれ、聴いてたの。どうだった、今の演奏は?」久那津が古戸に話しかけた。
「今回は僕の負けです。まさかこんなやり方があるなんて、考えもしませんでした」
「ハハハ、別に勝ち負けなんてどうでもいいさ。シューベルトといえばやっぱり上品で優雅な音楽が似合うと思っただけだ」

 演奏会本番を終えて、楽屋に戻ると久那津も入ってきた。
「どうかな、君の『未完成』は完成されたかな」
 その台詞を聞いた瞬間、気がついた。

 そうか、この曲はこれで完結しているんだ。無理に4楽章構成にする必要なんかなかったんだ。
 2楽章構成の交響曲、これが「未完成」の本当の姿だ。



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