「・・・言うまでもなく標題音楽というものは一つの物語のようなものであって、各楽章にはそれぞれの受け持った役割があり、あるひとつの楽章だけを抜き出して演奏しても意味がない。とは言うものの何らかの標題を持つ音楽でも、多くはその標題を抜きにしても充分鑑賞に値するほどの完成された構造を持っている。標題音楽でもあり、絶対音楽でもあるという二重性が顕著になり始める時代といえるかもしれないな。今回取り上げるベートーヴェンにしても、純粋な絶対音楽といえるのは1番と8番のみで、ほかはどこかに標題性を持っている。どちらの性質を前面に出すかは指揮者の判断に委ねられていて・・・」
 目蹴部の次のテーマに付帯する説明。

 最初に「第五」を取り上げた古戸は、次はあまり日の当たらない曲を取り上げるつもりだった。といっても自分がやりたくないものを取り上げても仕方ないとも思うので、いったんは「第二」を選ぶことにしてスコアの研究に入った。

 第一楽章、Adagio molto(非常に遅い速度)。この楽章の長い序奏部。モーツァルト的な音楽の中に、時折ベートーヴェン的な響きが現れる。これはベートーヴェンの初期の作品の特徴だ。35小節目のアレグロ・コン・ブリオから主部に入る。一つ目の主題から展開し、ヴァイオリンによる八分音符の流れるような演奏、次の主題へつなげる。楽譜上Bから始まる部分がそれだ。管楽器がピアノで明るい光の兆しを示し、弦楽器がフォルテシモでそれに向かって力強く進んでいくような、魅力的な旋律。再び最初の主題が出てくる。後ろにいかにもベートーヴェン的な同じ音の繰り返しで盛り上げていく手法がとられる。135小節目のリピート、これは無視。記号Dから八分音符の主題、ヴァイオリンから始まりヴィオラやチェロ、コントラバスに渡され、さらに管楽器に移行したり短く切られたり、さらには十六分音符での演奏(そして低弦が支える)と非常に多彩な変化を見せる。Eからは調を変えてこれまでの再現のような音楽。これまでとは違った魅力を引き出しつつ、終結部へ。暗雲が立ち込めるような全体での二分音符を主体とした演奏、しかしその頂点で、ヘンデルの室内楽を思わせるようなトランペットの輝かしい響き、天叢雲剣よろしく分厚い暗雲を切り裂く。元の調子に戻り、この楽章を終える。

 第二楽章、Larghetto(表情豊かに、ただしあまり遅くなく)。モーツァルトの色濃い楽章。
 この楽章は普通の演奏よりも速いテンポで飛ばしていく。昔の貴族のように時間が有り余っている人に聴かせるならともかく、忙しい現代人には何の工夫もなく遅いテンポで演奏しても退屈なだけだ。どんどん攻めて、各楽器のぎりぎりの攻防を楽しんでもらおう。
 第三楽章、スケルツォ、アレグロ。第四楽章、アレグロ・モルト。ここでもモーツァルトの影響が大きく反映されている。第三楽章の構造などはモーツァルトそのものといっても良い位だ。

 それにしても、この作品は後期のベートーヴェンの作品やベートーヴェン以後のほかの作曲家の作品に比べて、楽譜を読むのがものすごく楽だ。楽なのだが・・・

「なんだ、やめるのか?」篠堀が古戸に問いただした。
「はい、次回は『第二』ではなく『英雄』にしたいんですが」
「オーケストラには昨日のうちに伝えてしまったんだが、仕方ない。今日また俺のほうから言っておくよ」
「すみません」

「どうしたんだ、一度決めた曲を変更するなんて」
「SPOCA」で、メニューを見ながら瑠非違使が古戸に聞いた。
「ちょっと、見積もりが甘かったみたいでさ」
「良い、アイディアが浮かばなかったのかな?」
「決めたときはそれなりに成算もあったつもりなんだ。だけど、スコアを開いてみたら何も浮かばなかった」
「なんだよ、それ。あ、俺『東方美人』お願いします。君は?」
「ミルクティー」
「あれ、珍しくノーマルだな。創造力の源泉が枯渇しかかってるんじゃないか?」
「それとこれとは関係ないだろう」
「そのとおり」
(なんだよ、それ・・・)
「何か言った?」
「別に」
「まあそんな冗談はいいとして、そのかわりが『英雄』か。でもそれなら『第7』は考えなかったの?『英雄』とは双子のような関係だけど」
「うーん…いまいち好きじゃないんだよなあ。第2楽章だけはすごく綺麗だと思うんだけど」
「ふーん、まあとにかく今度は成算がおありのようですな。で、マエストロのお考えは?」
「ありゃ『英雄ワルツ』ですよ」
「何だよ、謎かけかよ。まあなんとなく言いたいことはわかるけど」

 ベートーヴェンの交響曲第三番には「英雄」という副題がついている。この「英雄」がナポレオンを指すことは「英雄」を聴いたことがない人でも知っている有名な事実だ。その副題が示すとおり英雄的な雄大な響きが、特に第一楽章によく現れる。
 第一楽章は英雄の戦いを、第二楽章は英雄の死を、そして第三楽章は英雄の進軍を、第四楽章は英雄の活躍を描いたものといっていいだろう。
 ただ、この配置は疑問が残る。何故第2楽章に死を持ってきたか?
 時系列からは順番が乱れるが、
 チャイコフスキーの「悲愴」の登場を待たねばならない。
 この英雄を描写した響きを最大限に生かすために、古戸はひとつの大胆なアイディアを実行に移すことにした。

 今回は、各楽章のテンポ指示に徹底的にこだわる。楽章中に出てくる、流れを変えるような指示(「英雄」ではフェルマータのみだが)は一切無視。

 第一楽章、アレグロ・コン・ブリオ。この楽章開始の調を強調するような全体での二連音、そしてチェロが最初の主題を奏でる。ヴァイオリンがかぶさるように入り、フルート、クラリネットとホルン、またヴァイオリンと移り、全てのパートが入ってきて音階を下から上へ、最初の山を築く。頂点でピアノに戻り、オーボエ、クラリネット、フルート、ヴァイオリンの順でそれぞれの旋律を弾く。全員でのフォルテシモの後、試練を乗り越える英雄の姿を描写したような音楽。再びピアノで木管、何かを予感させるピアニッシモの弦楽器がだんだん強められ、木管も入ってクレッシェンド、全体でのフォルテは雄大に。一つ一つの音を強調するかのような四分音符と休符、最後はしつこいぐらいの六連打。またまたピアノでヴィオラとチェロ、フルートとヴァイオリン中心で一瞬優雅な旋律、すぐに英雄的な響きに戻る。リピートはしない。
 この、第一楽章を特徴付ける和音の連打は、現代のわれわれが聴くと(いや、あるいは当時の人にとっても)幼稚な感じがする。「英雄」が嫌いな人の大部分はこの連打に辟易しているだろう。この、無意味に思える音こそ、当時のベートーヴェンには必要だったのだ。
 モーツァルトの様式からの脱却。この作品でベートーヴェンが目指していたものがそれだ。この作品以後、ベートーヴェン独自の様式がはっきりと現れ始める。
 音楽の世界それ自体を拡げるために、自分は違う道を歩く。だが、ふと気を抜けば、偉大な先人と同工異曲になってしまうかもしれない。まどろみや酩酊から目覚めるために強い意志が必要なように、ベートーヴェンはその意思をこの音符に込めたのだ。
 モーツァルトの音楽には、魔力がある。聴き手ではなく、演奏家でもなく、作曲家のみに働く魔力が。もしかしたら、ベートーヴェンのほかにも、”新しい音楽”の創造に取り組んだ作曲家がたくさんいたのかもしれない。そして、彼らは皆、この”モーツァルトの魔力“に絡め取られてしまったのかもしれない。オリジナリティを発揮することなく、膨大な「モーツァルトの亜流」を築き上げて、そして歴史の中に埋没していったものたちが。その魔力を「完成度」と言い換えていいかどうか。
 現代のわれわれにとっては、この連打は取っ払ってもいいものかもしれないが、今回はスコアどおり演奏することにする。
 第二ヴァイオリン以下ではじまる落ち着いた旋律、低弦が不安な予感、“試練の間”の到来。トランペットが試練の終わりを告げると思いきや、まだまだ続く。299小節目でようやく好転の兆しが現れる。以後は最初の流れが調を変え楽器を変え、変奏を交えながら続く。655小節目から最後の山場だが、この部分のトランペット、一番の主役になる筈のところで突然消える。当時のトランペットではこれ以上の音域が出ないので伴奏に回り、木管だけが残るわけだが現代のトランペットならこの音域が出せる。あくまで楽譜通り演奏するか、トランペットに最後まで吹かせるか判断が分かれるところだが、理想主義のベートーヴェンならば当然最後まで吹かせたかったはずなのでここは楽譜を無視してトランペットに頂点まで登ってもらい、長い闘いを終える。

 第二楽章、Marcia funebre(葬送行進曲)、Adagio assai(非常に遅く)だがこのとおりのテンポで演奏してはいけない。もっと速く、sotto voce(小声で)で始まるヴァイオリンを歌わせる感じで。途中思わずフェルマータをかけたくなる場面がいくつかあるが、絶対に歩みを止めてはならない。69小節目、Maggiore(長調の)にいたっても同様だ。この頑張りが114小節目以降で生きてくる。157小節目の悲劇の始まりでもフェルマータはかけない、あくまで最初のテンポを堅持。203小節目のティンパニの三連符は楽譜にはないがクレッシェンド、その後のピアノの前にデクレッシェンドがつけられていることから察するに、これは作曲者の単純なつけ忘れか、または写譜時の見落としなどの理由からだろうと思う。この楽章の最後に至ってさえもリタルダンドはかけない。フェルマータもかけない。

 第三楽章、スケルツォ、Allegro vivace(生き生きと、急速調で)。付点二分音符が116個の指示だが、もう少し速めに。オーケストラにとっては負担だが、やってもらう。この楽章は、166小節目でTrio(中間部分)が入るところなど、モーツァルトの頃の形式の面影が残っている。もっとも、楽譜を丹念に見なければ気づくこともないが。381小節目で全音符が116個の指示になるが実質変わらず。

 第四楽章、Finale(終曲)、Allegro molto(なおいっそうの急速調)いきなり始まってすぐ、全パートフォルテシモのところでリタルダンドをかけそうになるが、もちろんそんなことはせず、次のフェルマータも無視。この楽章も第二楽章と同様、速度を落としたくなる誘惑に満ちている。その全てに耐えて、最後を迎えなくてはならない。
 349小節目、Poco Andante(すこしゆるやかな)八分音符が108個の指示だ。ここはその倍ぐらいのテンポだ。常軌を逸したスピードだが、こうしなければここまでやってきた意味がない。
 431小節目、Presto(急速曲)。この曲で唯一、指定外の変速指示を出す。それは、リタルダンドでもフェルマータでもなく、アッチェレランド(だんだん速める)だ!

(た・・・ただでさえプレストの指示が出ているのに、さらに速くするのか・・・!)
 オーケストラのメンバーは古戸の棒についていくのに必死、しまいには音符を飛ばし飛ばしに演奏する始末。
 だが古戸はかまわず、むしろ「これこそがこの演奏の終わりにふさわしい」とばかりに、そのまま最後まで突き進んだ。

「ずいぶんと渋い指揮をするね。第1楽章なんかワルツみたいだ」古戸に声をかけてきたのは村眉だった。
「あれ、聴いてたんですか」汗ばんだ顔を拭きながら、古戸が返した。
「実は今回、僕も『英雄』を指揮するんだが、今回はどうも反対の立場になってしまったようだな」
「というと・・・?」
「僕の場合は、むしろ積極的にテンポを動かして、かなり盛り上げていく演奏なんだ。君の影響を少し受けてしまったかな。でも、君のほうも、僕の前の指揮に影響されたようにも見えるけど」
「実はそうなんです。『英雄』では、こっちのほうがいいんじゃないかと」
「ただ、それを理解してくれるお客さんがどれだけいるかな」
「それは・・・」虚を突かれ、返答に窮した古戸は絶句した。
「聴きこんだ人にとっては、君の『英雄』は、今まで知られていなかった面にスポットを当てる、ものすごく魅力的な音楽に聞こえるだろう。だけど、コンサートに来る人たちというのは、そういう人ばかりじゃない。というか、むしろそんな人たちはごく少数だろう。中には『英雄』なんて一度も聴いたことがない、なんて人もいるかもしれない。そういう人にとって、今君がやった、余分なものをバッサリ削りとってしまう演奏は、『英雄』を理解する手がかりをも失わせてしまっているかもしれない」
「・・・それは、そうなったらなったで仕方ありません。私自身は、今の表現が最上のものだと思っているんで、いまさら変えられません」
「ああ、別に君に方針の変更を迫っているわけじゃないから、あまり気にしないでくれ。人にあれこれいわれたぐらいでいちいち変えていたんじゃ、指揮なんてやってられないからね。今のはただ、僕の率直な考えを言ってみたまでだ」

 村眉さんにいわれるまで気がつかなかったが、全くそのとおりだ。皆が自分と同じレベルで曲を聴いているわけでは、必ずしもないのだ。上下幅広いレベルのたくさんの人が聴きに来る演奏会という場では、可能な限り多数の人の満足を得られるような演奏というものを、ある程度は考えに入れなくてはならないのかもしれない。

 翌日、村眉の指揮による練習を聴いた古戸は驚愕した。
 特に、第2楽章の葬送行進曲。弦楽器にポルタメントやビブラートを効かせ、死者に対する諦め切れない思いを現出している・・・それでいて、音楽が明るくなるといつもの村眉さんらしくさっと流して冗長になるのを防いでいる。決して音楽が澱まない。
 正直、この発想はなかった。



「あの第二楽章は、・・・・今まで想像もしないものでした」練習終了後、古戸は村眉に感想を述べた。
「指揮者の猪野 勲さんって知ってるかい、本業は評論家だけど」
「いえ」
「実はその人の真似だよ、あれは。あの人の演奏はよく言えば個性的、悪く言えば直観に完全に頼っためちゃくちゃな演奏なんでいつも絶賛と酷評の嵐だけど、嵌ったときは凄いよ」





 演奏会では、村眉の意見が正しかったように古戸には思われた。
 本当のところはどうなのか分からないが、演奏後の客席の反応が、自分の表現を理解したもののようには思われなかった。
 彼は今回はっきりと、「失敗」を意識した。

「で、再挑戦というわけか」
 翌日、「SPOCA」でボー・ティーを飲みながら瑠非違使が古戸に聞いた。
「最近、自分のやろうとしていることは意味があることなのか、いや、自分のやりたいことがなんなのかすら、わからなくなってきたんだ。『田園』で、自分自身にその辺を問いたい」目の前のテ・アスリなる紅茶の入ったカップを見つめながら、古戸が返す。
「どうやら、村眉さんが君のライバル的存在になるみたいだな」
「君には、そういう人はいないのか?」
「一人だけ・・・いるな。俺とは作品の解釈がまるで違う。普段はあまり話さないけど、こないだはベートーヴェンのソナタをめぐって争いになったよ」
「君にもそんな人がいるのか」古戸が意外そうに言った。
「奴だけは特別だ。で、『田園』でも分からなかったら・・・?」
「これで、指揮をやめることも考えてる」
「ふーん・・・・・・・出るといいな、答えが」

「田園」とはベートーヴェンの交響曲の第六番のことを指す。「第五」の激しい音楽とは対照的に、特に前半は非常に単純な旋律によるゆったりとした音楽である。
 初演時、この「田園」と「第五」はセットになって演奏された。ただしこのときは番号が反対につけられており、今で言う「第五」は「第六」になっており、「田園」が「第五」だった。

「田園」を好んで聴く人というのは、どんな人だろう。やはり、自分の存在の弱さ、儚さを痛感している人だろうと思う。この曲の響きに救いを求めているのだ。そして、その響きに癒される。思えばベートーヴェン自身がまさにそうだった。「田園」の作曲当時、すでに彼の耳はほとんど聞こえず、したがってピアノなどの重要な「商売道具」を全く使えず、自分の記憶と想像力を頼りにこの作品を書き上げたのだ。
「田園」がベートーヴェンの交響曲としては唯一の五楽章構成になっているのは、当然のことだが自然と田園に生きる人間を描きつくすにはそうすることが必要と判断したからだろう。

 練習前に、古戸がオーケストラのメンバーを前にして告げた。
「今回の『田園』では、スコアの強弱記号はその大部分を無視します」
「何だって?」驚きの声が各所に上がった。
「この前の『英雄』といい、ちょっとやりすぎじゃないのか」
「『英雄』のときはテンポ一定、今度はヴォリューム一定ってわけか」
「君の意欲は買うが、それじゃあ俺たち人間が演奏する意味があるのか?音楽に表情をつける、大げさに言えばスコア上の記号に生命を吹き込むのが俺たちの仕事なんだから、そんな平板な音楽はコンピューターにでもやらせておけばいいという話になるじゃないか」
 疑問の声に、古戸が答えた。
「強弱を無視して演奏するからといって、結果として本当にまっ平な音楽が出来上がるわけではないと思います。人間が演奏する以上、そのときの感情に対応した微妙な揺れは必ず存在します。そこが狙いです」
「我々の仕事がなくなってしまうようにしか、聞こえないんだが・・・」
「そうではありません。モーツァルトは声楽についてこう言ったそうですね。『必要以上にビブラートをかけるのは感心できません。人間の声というものは、普通に出せばそれだけで、適度なビブラートがかかっているものなのです』と。それを思い浮かべていただきたいと思います」
「それに、無視するのはあくまでも強弱のみです。他の要素はスコアの指示に従います」

「ひとつ確認しておきたいことがある」第二ヴァイオリン奏者の中の一人が席を立った。
「強弱を無視するとは、最初に中庸の大きさから始めて、絶対にそれを変えないということか。それとも、楽譜の記号にとらわれず、我々の自由な裁量で大きさを決めてよいということか」
「あまり極端な場合は困りますが、基本的には皆さんの思った大きさで演奏していただければ結構です」
「なるほど、そういうことなら問題ないだろう」

 第一楽章「田舎に着いたときの楽しい感情の目覚め」、Allegro ma non troppo(急速調だがあまり行き過ぎず)冒頭のフェルマータは充分伸ばして。速さのバランスをこういうところでとる。全員で最初の主題を演奏、フルートが鳥の鳴き声を模倣する。後は楽譜にそった進行、最後のフェルマータも充分伸ばすかわりに直前までテンポは緩めない。オーケストラにああは言ったが、実際にはテンポもほぼ一定だ。

 第二楽章「小川のほとりの景色」、Andante molto moto(大いにメロディーの動きを持って適度にゆるやかな)。第一楽章の気分を引き継ぐ楽章だ。
 フルートが夜うぐいす、オーボエがうずら、クラリネットがホトトギスを模倣する最後の場面が有名だが、他にもこの楽章自体がそういった鳥の鳴き声に満ちている。
 その木管のソロが入る手前でフェルマータをかける。休符も長めに。
 第三楽章「田舎の人々の楽しい集い」アレグロ。
 161小節目、sempre piu stretto(ますます緊密な、事実上のアッチェレランド)を経て後半に入る。
 ここから最後まで、楽章間をあけることなくつづけて演奏する。
 第四楽章「雷雨、嵐」アレグロ。
 第五楽章「牧人の歌。嵐の後の喜ばしい感謝の感情」アレグレット。嵐を耐え抜いた人の喜びを一杯に表現しなくてはならない。そのためには合奏は朗々と。そうでないところも生き生きと。ある意味、この終楽章がこの曲の核心だ。最後の小節の休符に一見無意味なフェルマータがついているが、これは「余韻を大事にしろ」というベートーヴェンからの伝言だ。最後の2つの小節にリタルダンドをかける。ラストは特に遅く。



 そして演奏会本番。



 今になって思う。
 この作品は、単に田園風景と村人たちの生活を描いたものじゃない。
 そこに表現される心情は、田舎でなくとも、また当時の人たちでなくとも共通するところがある。
 たとえば、第4楽章の「嵐」に表現されているのは、現実の嵐というよりもむしろ、ひたすら不安な心、焦りなどだ。

 第一楽章は、この曲に込められた感情の全体を提示し、
 第二楽章は、落ち着いた穏やかな心を、
 第三楽章は、愉しさを、
 第四楽章は、突然の災難による恐怖と苦しみを、
 第五楽章は、災難から立ち直った後の感謝の気持ちを、それぞれ表現しているんだ。


 そうか、やっぱりこれしかないんだ。
 受け取り方は人によって様々だ。それをコントロールしようとしていたなんて、コントロールできるつもりでいたなんて、思い上がりもいいところだ。どんなときでも、自分の持っている力をそのまま出していけばそれでいいんだ。
 たとえ100パーセント伝わらなくても、10でも20でも伝わればそれでいいじゃないか。

 楽屋に戻ると二人の男が待ち受けていた。
「いやぁ、スコアの要素をひとつ消すことでオーケストラを他の要素に集中させ、まとまりをよくさせる。なかなか上手いじゃないか」口からパイプを外し、思わずむせ返るような煙のにおいを漂わせながら上機嫌でその哲学者兼自称音楽評論家は言った。
「別にそういうつもりはなかったんですが・・・」
「ああ、今のは半分冗談だ。それはともかく、『田園』でこんなに感動させられるとは正直、思わなかったよ」
「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るることを知る、だな」目蹴部が独り言のように言った。

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