数日後。練習室に古戸たちが集まっていた。
「先日はご苦労さん。全体としてはまあまあの出来だったと思う。ところで、次のテーマはモーツァルトだ」篠堀が告げた。
「モーツァルトの一番の特徴といえば、『完成された美しさ』だろう。印象的な旋律や和音やリズムなどなくても、『ただ鳴っている』だけで快さを感じる。なんら人工的なものを加えていない、それでいて完成されている、まさに自然。シベリウスのような自然そのものを写し取ったような音楽とはまた別な意味で、あらゆる音楽の中で『もっとも自然美に近づいた芸術美』といって良いかもしれない。ただ、それだけにモーツァルトの真価を理解するためには、それなりの人生経験を経て『自然の美しさ』を理解できるようにならなければならないがね。私も本当に理解したと言えるようになったのはつい最近のことだな、ハハハ」目蹴部の補足説明が入った。
 モーツァルトが作った交響曲は、番号がつけられているものが41曲。他にも断定はされていないがモーツァルトの作品ではないか、と考えられている曲もある。
「モーツァルトでしたら、私は『25番』で行きたいと思います」古戸が言った。
「25番は短いな。プログラム的には、誰か長い曲をやるものと組ませたほうがいいな」目蹴部が答えたところで古戸が提案をした。
「それなんですが、25番をやる前に一曲入れたいんですが、無理でしょうか?」
「できないことはないが、オーケストラの負担も増えるから、本当に軽めのものに限るぞ」篠堀が代わりに答えた。

 古戸はこの「第25」と一緒に演奏する曲として、チャイコフスキーの組曲「白鳥の湖」から、第二曲「Valse」(円舞曲)を選んだ。
 「白鳥の湖」といえば、有名なのはなんといっても第一曲の「情景」だ。冒頭部分を聴いただけで曲名を言い当てられる人がたくさんいるだろう。第二曲を聴かせたところで、これが「白鳥の湖」の中の一曲だとわかる人がどれだけいるか。
 古戸がこの曲を選んだ理由は、今までこの曲を演奏した録音で自分の理想に合った演奏がひとつもないことだった。

 Tempo di Valse(ワルツのテンポ)の指示により始まる。これは、なかなか洒落た言い方だと思う。はっきりと「この速さ」と決めているわけではない。各々の「ワルツ」に対する意識を問われているのだ。しかも、これが巧妙な罠となっている。作曲者自身はそんなつもりはまったくなかったろうが・・・。
 この曲ではテンポの指示がこれ以降まったく出てこない。つまり、最初にとったテンポが曲全体に影響を及ぼしてくる。
 普通、ワルツといえば速めのテンポで軽く演奏する。この曲もそのように演奏しているのがほとんどだ。しごく的を射た考え方だ。この曲が本当に「ワルツ」ならば、だが。
 この曲がバレエを離れて、演奏会のためのひとつの独立した作品となったとき、それは単なるワルツではなくなる。とすれば、この作品にあったテンポを選ばなくてはならない。そのテンポとは・・・・非常にゆったりと、一つ一つの音に重みを持たせるようなテンポだ。
 しかも、ところどころでリタルダンドも入れる。結果として通常よりも演奏時間がかなり長くなるが、むしろ長くなることによって非常にふくよかな内容を持った音楽となる。



 次の日、構内の喫茶店「SPOCA」で古戸と瑠非違使が次の演奏会のテーマであるモーツァルトについて語っていた。
「これほど謎めいた作曲家もいないよな。フリーメイソンとのつながりとか」
「別にフリーメイソンの会員はモーツァルトだけじゃないよ。『魔笛』のおかげでモーツァルトだけが特に有名になったけどね」
「モーツァルトの死期を早めた作品・・・」
「へ?君何か勘違いしてない?」
「アレだよ、モーツァルトが『魔笛』の中でフリーメイソンの秘儀をバラしちゃったんで、暗殺されたって言う説」
 アイリッシュブレックファーストティーの入ったカップを置いて、突然瑠非違使が笑い出した。
「あっはっは・・・。君オペラ観たことないの?」
「うん、なんか気が向かないな」
「何も知らない人が言いそうな話だね。本人を殺しても、作品が残ったんじゃ意味ないと思わない?それに、台本を書いたといわれるシカネーダーはお咎めなしかい?」
「・・・ああ、そうか、そう言われれば」
「そういう俗説は当時の状況を調べもしないで適当なことをでっち上げてるだけだから、詳しく見ていけばあちこちに矛盾が出て来るんだよ。まあ、だから俗説なんだけど」
「ということは・・・?」
「むしろ、自分の死期が近いことを悟ったモーツァルトが、歌劇の形でフリーメイソンの思想を伝えるために書いたのが『魔笛』じゃないのかなあ」
「じゃあ、むしろフリーメイソンの方から積極的に働きかけてモーツァルトに対して『魔笛』を書かせた・・・?」
「そうかもしれないし、モーツァルトが自発的に書いたのかもしれない。仮に自発的だったとしても、フリーメイソンが拒否すればこの作品が世に出ることもなかったはずで、『魔笛』が公になったということは、少なくとも黙認されていたと考えるべきじゃないかな」
「もしそうなら、モーツァルトは組織の中でもかなりの高位にいたということになるかな?」
「ローマ教会で言ったら枢機卿ぐらいの立場だったかもしれないよ・・・それにしても、ここはお茶の種類がすごく豊富だね。お気に入りの場所になりそう」
「紅茶って渋味があるもんだとばっかり思っていたけど、うまく淹れられた紅茶って全然渋味がないもんなんだね。ほとんど緑茶と同じ感覚で飲めるよ」イングリッシュブレックファーストティーを飲みながら、感心したように古戸が返した。
「ま、でもオペラもそうだけど、モーツァルトの残した作品群の中では、交響曲はあんまり重要じゃないと思うよ。その中心はやっぱりピアノ曲だと思うな、ある意味モーツァルトの『本心』が垣間見えてるという意味で」
「うーん、どうだろうね…とりあえずこの自家製ハウピアは美味しいね」


 モーツァルト「第25」の楽器構成は、オーボエとファゴットが二本ずつ、ホルンが四本、それに各弦楽器。なんと、たったこれだけ。今では考えられないほど簡単な構成だ。演奏を聴いているととてもそんな風には思えないが、しかし実際そうなのである。そこがやはりモーツァルトの天才性の現われとも言えるのだろう。この小さい構成の中にモーツァルト独特の「哀しみ」が詰まっており、非常に魅力的な曲だ。

 次の週末、練習室での全体練習。
 第1楽章のテンポ指示はアレグロ・コン・ブリオだ。これは正しい・・・いや、スコアにそう書いてあるのだから正しいのは当たり前だ。スコアが基準なのであって俺が基準じゃないのだから。シンコペーション(ひとつ音を出したら次の音を速めに出すような感じ)のリズムのあと最初の主題が現れ、一つの山を築いたところで少しテンポを落とす。二回目のシンコペーションのリズムは、ゆっくりと、落ち着いたテンポで。オーボエがピアノで入り、デクレッシェンドとともに速度も落とす。ピアニッシモの三つの音は、もうこれで終わるかのように鳴らす。
 ヴァイオリンの激しい旋律が始まる。テンポは元のアレグロ・コン・ブリオに戻す。あるいは、若干速めでもいいかもしれない。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが寄せては返す波のようにそれぞれの旋律を奏で、やがてその二つが合わさっていく。この波がおさまるのとあわせてテンポも落として、スタッカートの三つの音で締める。
 次のヴァイオリンは、冬の暖炉のように落ち着いた暖かさをもって。オーボエが加わってフォルテとなるが、最初は流れを重視して大げさにすることなく。上に昇っていく八連音で本来のフォルテにする。やがてリピートにたどり着くが、やはりここも戻らずに先へ進む。このモーツァルトの25番は交響曲としては非常に短いので、繰り返さずに演奏すると本当にあっけなく終わってしまうが、そのぶん内容を濃くして勝負しよう。
 弦楽器とオーボエによって、船が舵を切って方向を転じるかのような旋律が出現する。4小節分鳴らされる。その気分がしばらく続いた後再び最初の旋律が現れるが、今度はデクレッシェンドからピアニッシモのあとも悲しみの旋律が続いたまま終結部へと進んでしまう。

 第2楽章は、第1楽章の悲しみを慰めるような響きではじまる。テンポはAndante(適度にゆるやかな)。続くヴァイオリンによる旋律は、シトシト雨が降っているような落ち着きが感じられるように。この楽章は終始こんな感じで演奏する。

 第3楽章、Minuetto。本来の意味は17世紀頃フランスに起こった3拍子の舞踏曲で、ここではメヌエットと同じ位のテンポで、という意味だろう。こんな悲しい出だしの曲では、踊る気になんかなれない。
 この楽章のみ楽譜どおりの進行で行く。つまりリピートも無視せずきっちり戻って演奏する。さすがにこの楽章で繰り返さずにいくのは無謀だ。手元のスコアでは第三楽章はたった3ページあまり。それこそ一瞬で終わってしまう。
 中間部に、いかにもモーツァルトらしいかわいらしい旋律が出てくる。天真爛漫さと寂しさをあわせ持ったような感じをオーボエに充分に引き出してもらおう。

 第4楽章のテンポ指示はAllegro(急速調)だが、ここはゆっくりとしたテンポにする。指示通りのテンポではこの楽章の旨みを抽出することが難しい。ピアノ、フォルテ、ピアノと来て次のフォルテの直前、第1ヴァイオリンが上昇する旋律を奏するところはリタルダンドからフェルマータ。次のスタッカート付きの音符からまたピアノになるまでは、テンポがもたれ気味になってもいいからやや大げさに強調して。むしろ多少もたれたほうがいいのかもしれない。リピート前の下の音階から上昇していく場面、フォルテの直前で一瞬間を置く。リピートは無視。
 音楽が進む針路を変えた先は「不安」だった。第1ヴァイオリンの八分音符の連続音とその裏で演奏される弦楽器によって、警報のような響きになる。テンポは若干速めで。ピアノになり、最初の主題が再現されたら落ち着きを取り戻させる。二回目のリピートの前6小節目でテンポを落とす。ここもリピートは無視してCoda(結尾部)に入っていく。一音一音を強調するように。最後の四つの小節は一段と遅く。締めくくりの二分音符三つのうち、最初の音は八分音符に変えて、休止部でフェルマータ。いかにも終わりだという演出をする。

 休憩時に倉石が声をかけてきた。
「ベートーヴェンのときもそう感じたんだが、君はちょっとテンポを動かしすぎじゃないのか」
「はあ、でも私なりに考えがあってのことなんです。無意味にやっているわけではありません」
「指揮者として腕を振るいたいのは分かるが、合わせるこっちの身にもなってくれ。ついていくのが大変だ。他の人の倍疲れる。それに、こう言っちゃなんだけど、随分伝統的というか、重いテンポだよなあ君の指揮は。最近はモーツァルトは速いテンポで澱みなく演奏するのが流行りなの知ってる?」
「まあ…そこは、私の表現に合っているのが今のテンポということで、…」
「でも、面白いですよね」確か真久田さんと言ったか、倉石の隣で弾いている奏者が口を挟んだ。「音楽に合わせてテンポも変わるから、弾いててとても楽しいですよ」
「うん、まあ彼女のような意見もあるが、過ぎたるは猶及ばざるがごとしとも言うからな。ああ真久田君、さっきのパート練習も良かったが、今の合奏でも非常にいい音をさせていたね。せっかくだから後でまた合わせてみようか」

 練習スケジュールをあっという間に消化して、古戸は本番の舞台に立った。
 緊張感が襲ってくる。だが、ここで負けてはいられない。この短い曲を燃焼しつくしてしまうつもりで行くぞ!



「いやあ大変短い時間ではあったが、大曲に劣らない充実した時間を過ごすことができたよ」
 演奏後に楽屋で休んでいると、髪を後ろになでつけてパイプをくわえた、腹回りが異常に大きい男が入ってきて古戸を見るなりそういって古戸の肩をたたいた。
「あなたは・・・?」
「おお、失礼。私は哲学部教授の今江 神人。音楽評論家でもあるがね。今日は聴きに来てよかった。次の君の指揮にも期待している」




「なんだ、またやるのか?」
 喫茶店「SPOCA」で、瑠非違使が古戸に意外そうな感じで聞いた。
「うん、もう一回モーツァルトをやるよ。次は40番」
「普通、ひとつのテーマで一回指揮したら、次のテーマが出されるまで休むもんらしいぞ。オーケストラだって準備が大変だろ、ただでさえきっついスケジュールでやってるんだから」
「でも、次にまたモーツァルトがいつできるかもわからないし、こないだの25番がすごく短かったから、できるときにやっておきたいんだ」
「また遅いテンポでやるの?君の指揮は時代遅れだって他の指揮者の人が結構言ってるみたいだけど」
「しょうがないね、そこは一応俺独自の考えということで・・・」
「まあモーツァルトはテンポを選ばないところはある気がするな。ピアノ曲だったらそれこそ早送りのようなテンポでも全然音楽が崩れないし。うーん、それにしてもここの水出しコーヒーはうまい」
「お茶菓子がなくてもいいくらいだもんな。家でもこれぐらいうまく淹れられればなあ」
「とかなんとか言って、しっかりカヤトーストも食ってるじゃないか」
「このカヤトーストも美味いなあ。次はパンダン入りのに挑戦してみよう」
「コーヒーは、ブラジルではものすごく濃くドリップしたのをこんな小さいカップで飲むらしいね。でも、知り合いでアフリカの東海岸の方にしばらく滞在してた人がいるけど、その人の話ではコーヒーは薄めで、お茶みたいな感覚で飲んでたらしいよ。とにかく汗をかくんで、濃いときつくて飲んでられないって」
「アフリカってことは原産地の近くってこと?じゃあ信頼性があるかな」
「実際ブラジル式だと酸味や苦味が強すぎて日本で日常的に飲むにはちょっときつすぎるんだよな。やっぱりコーヒーをちゃんと味わいたかったら、アメリカンというか、薄めに淹れるべきだね」
「といってもあまり薄すぎて水っぽくなっても困るし、そこら辺の加減が難しいよな」
「コーヒーの味は、基本2つの要素を加減することで成り立っている。ローストの仕方と、挽き方だ。軽くローストすれば酸味が強く、深炒りなら苦味が強くなる。粗挽きなら薄めになるし、細挽きなら濃くなる。数学的に表現するなら、ローストの加減をX軸、挽き方をY軸に取ったグラフの点で表わされる」
「豆の違いは?」
「俺もずいぶん色々な豆で飲んできたけど、そこに有意な差は認められなかった。ただ豆だけ変えたわけじゃなくて、ドリップもエスプレッソとかサイフォン式とかいろいろ試した上での結論。無視して構わないね」
「そんなもんかー」
「もっとも原産地の豆で飲んだことはないから、それを体験すればまた変わるかもしれないけどね。あ、あと水は当然良い水を使う、と。当たり前のことだから言わなかったけど」


 次の週末、モーツァルト「40番」の練習日がやってきた。
 第一楽章はメロディーのかたまりのような楽章である。この特長を生かすためにはMolto Allegro(さらなる急速調)の指定通り演奏しないほうが良い。ゆっくりと、一つ一つの旋律を歌いきって次につなげる。そんな演奏が良いだろう。ヴィオラのごく短い序奏からすぐにヴァイオリンの印象深い旋律が始まる。管楽器の泣き節が入り、おさまったところで最初の旋律が再現されるが、こんどは悲しみから立ち直るような響きを残し次の旋律に移る。全てのパートによるはげしい合奏。ここは若干速く。管楽器とヴァイオリンが交代で演奏していく、当然テンポは遅くする。そして弱音からクレッシェンドでの合奏。力強い低弦のスフォルツァンド、弦楽器とファゴットにオーボエ、クラリネット、ホルンが加わり、最後にフルートが入ってクラリネット、オーボエ、ホルンが抜ける。ピアノでクラリネットとファゴットが交代で吹き、第一ヴァイオリンが裏で支える。そのヴァイオリンによる、明るく力強いサウンド。もう一度ファゴットとクラリネットの交代、ヴァイオリンの元気な旋律から音の下降、上昇を繰り返して93、94小節目。ここで急速にリタルダンドをかける。音楽を落ち着かせるためだ。あわせてオーケストラの歩調を整わせ、ここからリピートまでは堂々たる進行で。
 リピートは繰り返さず、第2部に入る。ここからは転調の嵐だ。凄まじいほどの音楽の変化、感情の変化。テンポは当然速め。138小節目に至ってようやく落ち着きを見せる。小鳥の囀りのようなヴァイオリンと管楽器の応答。その最後、152小節目でリタルダンドとフェルマータ。ヴァイオリンの、心を引き裂かれるような旋律がはじまる。終わりはやはりリタルダンドで、そのテンポを引き継いでフルートとクラリネットによる、慰めるような応答が入る。
 ヴァイオリンによる最初の旋律を再現する。裏で旋律を吹くファゴットには大いに歌ってもらおう。    ・・・・・・・突然の変化。第2部以上の嵐。210小節目でリタルダンド、ここはどんな手を使ってでも止めなければならない。と言ったら大袈裟か。そして再び走り始める。ほぼ全パートでのスフォルツァンドは低弦が一番大きく。226小節目でやっと一息つける。この場面はゆっくりと、落ち着いて。240小節目からはリタルダンドをかける。悟りの境地といえばいいのか、ひんやりと、深淵に音だけが漂うイメージ。そして、その音がついに聞こえなくなったそのとき、突如として全パートが息を吹き返してくる。音の大きさ指定はピアノだが、もっと小さく、無限に小さい音から始める感じで。
 全員で嘆きの旋律。284小節目、総休止。ここから非常にゆっくりと。291小節目で管楽器が入るところは特に遅く、リタルダンドをかけて止まる寸前までもっていく。そして全パートでの終結部。終わりに相応しく堂々と。

 第二楽章、Andante(適度にゆるやかな)。ヴィオラ、第二ヴァイオリン、第一ヴァイオリンと旋律を渡しつつ積み重ねる開始。モーツァルト独特の哀しみとそれを慰めるような旋律。スフォルツァンドはあまり強調しすぎず、むしろ普通のフォルテくらいでいいかもしれない。それと、何気ない装飾音符が音楽の流れを作っているので大事に演奏してもらおう。雪が降る様子を表現したような三十二分音符は各楽器の特徴を持たせつつ鳴らす。弦楽器が最初の旋律に戻り、管楽器が雪を降らせていくがしかし、弦楽器は悲しみの色を帯びていく。ここの弦楽器は非常に滑らかに、美しく演奏してほしい。それによってより悲しみが引き立つ。この間ゆっくり演奏していき32小節目の後半、リタルダンドとクレッシェンド。33小節目のフォルテは、モーツァルトの嘆きの叫びだ。この一音のみフェルマータ。ここからの三十二分音符にはもはや以前の印象は微塵も見られず、不気味さすら感じさせる。36小節目で落ち着く。43小節目の後半で再びリタルダンドとクレッシェンド、全パートによるフォルテは壮麗でありながら不安感と不気味さが混じった音楽。第一ヴァイオリンのトレモロがそれを端的に表わしている。そして不気味さは依然として残るが明るさが見える響きを経て、小雪を舞わせつつフェードアウトしてリピートにたどり着く。
 このリピートは無視。第二部、不気味さからまるでベートーヴェンのような苦しく、つらい響きへ変わっていく。一つ一つの音が身を切りつけるような感じ。落ち着いたところで最初の旋律が再現されるが、途中で転調を繰り返しながらこれまで出てきた旋律の断片が演奏される。103小節目から33小節目と同じ展開、ただしその色合いは異なる。後半少し明るさが見え、続いて子守唄のような優しい旋律がはじまる。115小節目でこの楽章最後の不気味な影を残しつつ、優しい終結部へ。最後は当然リタルダンド。リピート記号で締めくくられているが繰り返さず、この楽章はこれで終わる。
 概してモーツァルトの音楽は、本当に聴きこんだ人にしか分からない複雑な表情をもっているが、この楽章などはその最たるものであろう。ふと気を抜けばいつのまにか通り過ぎてしまうような軽さをもっているが、実は恐ろしく密度が濃い。そのあたりをできるだけ分かりやすく演奏したい。

 第三楽章、Menuetto.Allegretto(やや快速な調子)この楽章は「25番」と同様、リピートは楽譜どおり戻る。三拍子のリズムが、各楽器の中で移ろう旋律とともに悲しみの舞踏曲を演出する。同じような旋律を縦や横にずらして重ね合わせたような構成は音楽を盛り上げる上で比類ない効果をあげるが、アンサンブルがずれてしまうと焦点がぼやけてたちどころに音楽が曇ってくる。全体がずれないようしっかり統率しなければならない。

 第四楽章、[Finale.]Allegro assai(「終曲」さらなる急速調)だがここはこの指示通りではなく、むしろゆるやかなテンポ主体で進む。時折急速調にはするが、この楽章の内容の濃さからいってスピード感あふれる演奏は向かない。速いところと遅いところ、それぞれを適切に使い分けていく。その代わりこの楽章もリピートしない。
 第1ヴァイオリンの旋律で始まり、しかも、管楽器と交代したりもするが、それが最後まで続く。ひとつの独立した作品として演奏されてもおかしくないくらい全体の構成ががっちりと固められている。一つ一つの音を大事に弾いてもらう。途中主旋律が低弦に渡される。低い音でヴァイオリン並みにはっきりと音を鳴らすのはなかなか骨が折れるが、頑張って鳴らしてもらう。

 それにしても、この「40番」もそうだが、モーツァルトの音楽には何か人の心に自然に入り込むような要素があるようだ。「癒し」などという陳腐でただれた言葉は使いたくないのだが、モーツァルトを語る場合の重要なキーワードのひとつにそれが挙げられる。「音楽には道徳的な力がある」と語ったのは誰だったか、とにかくかつてそんな言葉を残した指揮者がいたが、モーツァルトにはそれが一番当てはまるような気がする。

 翌日、古戸は他の指揮者の練習を見学しに練習室に入った。
 そこにはやたら怒鳴り散らしている男がいた。散々オーケストラを罵倒し、ついには練習を放り出して部屋から出て行ってしまった。表情は不機嫌そのものといった顔だった。
 古戸はそのあとを追っていき、近寄るのもはばかられるような雰囲気だったがあえて聞いてみた。
「いったい、彼らのどこが悪いというんですか?」
「どいつも、こいつも、情熱がなんにも無いよ!」

「またあいつの癇癪がはじまったか」うんざりした顔で篠堀が言った。
「自分の思い通りに行かないからといって、全部オーケストラのせいにするのはちょっとな・・・」
 久那津が応じた。
「一時代前だったらああいう独裁的な権限を持っている指揮者もいたが、あれを今やられても困る。戸塚にはしばらく指揮を控えてもらったほうがいいな」


「相変わらず自信なさそうな顔してるな、お前・・・」
 本番前、鏡に映った自分を見てつぶやく。
「いまさらそんな顔をしたからって、何か変わるのか?ここまできたら、後は舞台に出るしかないだろう。それとも、ここまで来てできませんって言うのか?大体お前がそんな風じゃ、オーケストラのメンバーが信頼してくれないんじゃないのか?信頼できない指揮者の下で、まともな音を出してくれるものなのか?精密な合奏を響かせてくれるのか?」
 鏡を背にして、舞台へと歩み始めた。
「そうだよな、たとえ自信がなくても、それを見せちゃ駄目だよな・・・」

 演奏終了後、拍手を受けて舞台裏に消える。
 客席からの拍手は、今日の演奏を称えてのものか、それともお義理のものか、いまだ分からない。

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