ベートーヴェンが完成させた交響曲は九つ。説明不要の「第五」「第九」を筆頭に、雄大な響きの「英雄」、自然賛歌の「田園」などそれぞれに特徴を持った名曲が揃っている。それだけにこの中からどれを選ぶか悩ましいところではある。
 今回が初めての指揮だし、あまり情報量が多い曲は避けておきたい。当然の事ながら、自分にとってなじみの無い曲は論外だ。大体、演奏会がどんな形式でおこなわれるか、まだまったく分からない。それにどうせやるなら、自分のアイディアを盛り込んだ今までにない演奏にしたい。またそうでなくては俺が指揮する意味も無い。
 それなりに自分の考えがまとまっていて、演奏時間も比較的短く、お客さんも良く知っている曲・・・。
 古戸は第一回目のコンサートに選んだ曲のスコア(楽譜のこと)を買いにCDショップへ向かった。

「おはよう、古戸君」
 必修講義「音楽概論」の始まる前、教室で瑠非違使が声をかけてきた。
「おはよう」
「もう、選曲は済んだかな?」
「ああ。『第五』にしたよ」
「おっ、早いね。まあ、無難なところだな」
「ところで、本当にベートーヴェンで間違いないんだろうね?」
「大丈夫だよ。瑠非違使インテリジェンス・エージェンシーを信頼してくれよ。たまに大事な情報を見落としたりするけどね」
「・・・・」
「冗談、冗談。君には期待してるんだから。でなければわざわざこんなこと教えてやったりしないぜ」
「何で、そんなに俺を気にかけるんだ?他にも指揮する人はたくさんいるのに」
「本物の才能をもつ人間は、他人の才能にも敏感なものだよ」
「・・・(言ってることがよくわからないな・・・)」
「ん?何だって?」
 そんな話をしているうちに担当の先生が入ってきて授業を始めた。



 その日の授業が終わり、家に帰った古戸は、瑠非違使に借りたCDを聴きながらスコアを「読む」ことにした。

 ベートーヴェンの「第5」は「運命」という副題が付いている、と俗に思われている。これはベートーヴェン自身の発案ではなく側近のアントン・シントラーのものであり、しかもそのエピソードは本当かどうか分からないものである。そういういきさつからするとあまり運命と関連付けることも出来ないような気がしてくるが、人生の岐路に立たされた人がこの「第5」ばかりを好んで、しかも毎日聴き続けた、という話も伝わっているし、あながち無関係とはいえないと思う。

 交響曲は非常に特殊なものを除いて全体をいくつかの部分に分けている。その分けられた部分を「楽章」と呼ぶ。もっとも多いのは全体を四つに分ける、つまり四楽章によって構成されているもの。ベートーヴェンの「第五」も四楽章構成だ。ところでその楽章についてだが、こんなことを言ったら作曲家に失礼かもしれないが、全ての楽章の中で第一楽章がもっとも出来が良い場合が多い。ベートーヴェンの「第五」もそうである、と言うと他の楽章の価値を貶めているように誤解される人もいるだろう。もちろんこれは指揮者の側からの発想であって、聴き手にとっては自分の考え方ひとつでどうにでも変わることである。古戸はそういうふうには考えていなかったが、第2、第3の二つの楽章はどちらかと言うとあまり指揮者が手を加える必要の無い楽章ととらえていた。指揮者にとって重要なのは第1、第4の両端楽章。特に第1楽章はその入り方によって、まさにその演奏の「運命」を決定づけるといっていい。

 最初の入り、あまりにも有名な四連打の動機(楽曲を構成する最小単位となる旋律)。
 この四つの音の並びは同じ重みを持ってはいない。あえて言うならば、大事な音とそうでない音がある。最も重要な音は第一音だ。ここをぼんやりとした感じで入ってしまうとたちまちこの曲の芸術性が失われ、経済の中で生産と消費を繰り返す商業音楽のレベルにまで芸術水準を落とすことになる。(芸術水準とは何か、と問われれば、ここでは美を感じさせる度合いと答えておこう)では具体的にはどうするか。
 まずは、若干のアクセント(その音を特に強める)。これでこの音が引きたつ。そして、切れが良く、遅れずにしっかり弾いてもらう。ほかの音はともかくとしても、この第一音だけははっきりと響かせてもらう。
 次に、ここのテンポの取り方がまず指揮者の頭を悩ませる非常に重要な問題になる。スコアには、“Allegro con brio”(快活さを伴った急速調)と書いてある。驚くべきことに、普通我々がイメージする「運命の重々しさ」といったものからはかけ離れたテンポの指示が書かれてある。この問題への対応の仕方はそれこそ指揮者によって千差万別だ。スコアの指示は無視して遅く入って運命の重さを表現する人、反対に次へのつなぎを滑らかにするために速くする人。古戸は悩んだ末に、基本はスコアの指示通りに速めで、四連打の最後のフェルマータ(音を長く伸ばす)を強調すると言う途を選んだ。そしてその主題を二回演奏したところで二小節分くらいの間をおき、そのテンポのまま、次へつなげていく。・・・

 ヴァイオリンとヴィオラによって主題が演奏されていき、全体で鳴らす最後の音が伸ばされる部分。ここは、スコアには無いがクレッシェンド(だんだん音を大きくする)させ、思い切り鳴らしきって次につなげることにしよう。
 そして再び全体の合奏からヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスと動機が受け継がれていく。弱音から段階的に盛り上がっていき、ひとつの頂点を形成した最後の音を鳴らしたところで、一呼吸おき、ホルンのソロ(独奏)はゆっくり目のテンポで、しかもだんだん遅く。そのテンポのまま、次のヴァイオリンはdolce(やさしく、甘く)だ。クラリネット、フルートと来てヴァイオリンのやや不安げなメロディーが始まる。全体のクレッシェンドが始まり、フルートが加わるところは一音一音をはっきりと、テンポはややもたれる感じ、最後のフォルテシモ(非常に強く)はフェルマータで長く伸ばす。ヴァイオリンからヴィオラまで加わる動機をやや変形した旋律の後に来る管楽器の演奏は、感じとしてはアフタービート(ロックなどでよく使われる後ろを強調するリズム)気味に演(や)ってもらおう。そして全体の四連打。ここも一つ一つをリタルダンド(だんだん遅くする)をかけつつはっきりと、しつこく念を押す感じで。最後は特に遅く。
 ここで、リピート(繰り返し)の記号が入る。
 普通ならリピートの最初まで戻るべきところだが・・・あえてここは繰り返さずに進むことにする。過去の指揮者の演奏でも繰り返していない人もいることだし、おそらく俺と同じ考えだったんだろう。
 クラリネットとホルンによる悲痛な四連打を弦楽器が受ける。ここは当然遅めのテンポだ。例によってフェルマータは十分伸ばして、少し間をおく。テンポも少し落とし気味に。その後はスコアどおりの演奏、弦楽器によるフォルテ(強く)九連打、十二連打の後のpiu(さらに強く)は実際の大きさと言うより感じとしてと言う意味に取ったほうがいいだろう。ヴァイオリンとヴィオラ以下の低弦の応答から管楽器と弦楽器の応答に変わり、ディミヌエンド(次第に弱く)を経てsempre piu(ますます、よりいっそう)となる。テンポもゆっくりと。突然雷鳴の如くフォルテシモがとどろく。最後の一閃はもうおなじみとなったフェルマータだ。消えるところはデクレッシェンド(だんだん音を小さくする)をかけよう。次のピアニッシモ(非常に弱く)は本当に、消え入りそうな音で、テンポも思いっきり遅く。
 再び雷鳴が鳴る。テンポは標準よりもわずかに遅く。今度はティンパニも入ってきて、その轟きは最高潮に達する。しかもフェルマータにテヌート(音を保った)までついている。ここでテンポを落とす。二回目はさらに落とす。
 また間をおき、落ち着きを持ったテンポで最初のテーマを再現する。ピアノ(弱く)。ヴィオラ、チェロ、コントラバスはピチカート(弦をつま弾く奏法)で物悲しさを出す。第一、第二ヴァイオリンの二回目の応答でヴィオラはarco(弓を使う)に戻し、最後にチェロとコントラバスがarcoに戻ってオーボエのソロが始まる。テンポはAdagio(ゆっくりと)。ソロの後半はリタルダンドをかける。もっとも、ここに限ったことではないと思うが、ソロの吹き方は演奏者に任せたほうがいいかもしれない。
 元のテンポに戻り、弦楽器のピアノから管打楽器も加わって盛り上がっていき、ちょうど300小節目で突然速度を落とす。中音部記号がついたバスーンはやや速めからリタルダンド、ここで「田園」の世界が顔を覗かせる。落ち着いたテンポでヴァイオリンとフルートの応答が二回あったあと、再び運命の世界に戻されるかのように悲しみの旋律に変わり、クレッシェンドしながら各パートが加わっていき、頂点近くで急減速、そして全パートでのフォルテシモはフェルマータ。361小節目からの4連打は気持ちとしては4つ目の音にアクセントをおく感じで。全パートでの4連打2回は、休符でフェルマータだ。管楽器と弦楽器の応答(スコア上の記号Eからはじまる)に続く弦楽器の連続音は、だんだんと輪郭をぼやけさせる感じで、最後はほとんどレガート(滑らかに演奏する)。クラリネット、バスーン、ホルンのピアノは「そうでなければならぬか?」だ。それに対して全パートが断固として応える、「そうでなければならぬ」。弦楽器は当然スタッカート。ティンパニは一番固いマレット(細い棒に玉をつけたようなもの、これで叩いて音を出す)を使ってもらおう。
 いよいよ運命の荒波にもまれていく。461小節目から若干遅く、466小節目は特に、念を押すように遅く。弦楽器から始まるG音の連続ではクレッシェンド。テンポはそのまま四連打に突入し、強く、音をはっきり切って。そして充分間を取って、ヴァイオリンとバスーン、クラリネット、オーボエと継がれていく主題が二回繰り返されて、全パートによる苦味の入った堂々とした演奏で第一楽章の幕を閉じる。最後の二小節は堂々とした音を保持して遅く。

 第二楽章のテンポの指示はAndante con moto(動きをもって、または元気よく適度にゆるやかな)となっている。8分音符が一分間に92回。これは、遅すぎだ。もっと速く、軽快に行かなければいけない。しかも、テンポに微妙な揺れを伴って。  ピアノ主体で進めていって、スコア上の記号Aのところでフォルテシモが出てくる。ハイドンの「驚愕」じゃないんだから、せいぜいフォルテぐらいに留めるべきだ。32小節目のsempre ff(常に非常に強く)やそのあとのスフォルツァンド(その音を特に強めて)なども、控えめにすべき。
 122小節目にリタルダンドをかける。そうすることで次のフェルマータにつながる。185小節目のフォルテシモからは、決して高圧的な響きにすることなく、「英雄」のごとく雄大に。205小節目でpiu mosso(もっと速い)の指示が来る。一番最後は、終わりにふさわしく少しためを作る感じで。とにかく、この楽章は各楽器の音の受け渡しが非常に重要だ。
 第三楽章、Allegro(急速調)。一分間に付点二分音符が96回。これももう少し速めのほうがいいだろう。二度目のpoco rit.(少しずつ、だんだん緩やかに)が終わり、ホルンが鳴るa tempo(遅れずに)の前で一小節分くらいの間をとる。あとは基本的にスコアにそった流れでいい。

 スコア上の記号Cからは終楽章への準備段階になる。弦楽器が夜明け前を描写するかのごとく音を長く伸ばし、ティンパニが曙のような暗い音を打つ。暗闇から現れたヴァイオリンが行きつ戻りつしながら光度を増し、音階を駆け上がっていく。各楽器がクレッシェンドとともに加わってきて、最大音量へ!

 このベートーヴェンの「第五」は、第三楽章と第四楽章は普通切れ目なく演奏される。しかし、ここは総休止の一手だ。エネルギーを蓄積し、完全に姿を現した目も眩む恒星の輝きを第四楽章の冒頭で一気に爆発させる!勝利のフォルテシモだ。
 この終楽章においては、一定のテンポなど存在しない。音楽にのせられた感情の高まりに伴って、テンポも終始揺れながら進行していく。アッチェレランド(次第にテンポを速める)、リタルダンド、フェルマータ、それこそ一小節、一音ごとに変化させなければならない。ここはどれだけ指揮者がオーケストラを統率できるか、どれだけ指揮者が自分の頭に描いた構想を指揮棒で表現できるか、そしてオーケストラのメンバーが指揮者の考えを理解してくれるか、オーケストラが自分の指揮棒についてきてくれるかが勝負だ。

 スコアには、冒頭のアレグロから始まって、Sempre piu allegro(よりいっそうの急速調)、Presto(急速楽章)などと指示が書かれてあるが、こんなものは全部無視だ。いや、基本はそれに従うが、ずっとその調子で行ったらこの楽章の意味がない。作曲者には悪いが、この曲ができた当時と現代では状況も違う。作品を自分の手足のようにものにした演奏家にとっては、それにふさわしい表現というものがあるだろう。
 当然、86小節目に来るリピートは無視。これだけ「濃い」演奏をしているのだから、繰り返してはお客さんもついてこれないだろう。低音部の楽器以外は長く音を伸ばすが、これはやや長めにする。
 82小節目のホルンの付点二分音符は、全音符に変更。せっかくの効果的なファンファーレを埋もれさせてしまう手はない。121小節目からの弦楽器のスタッカートは鋭く、しっかり音を切る。これを受ける122小節目からの管打楽器の4連打はスタッカートはついていないが、弦楽器を十分に受けきれるようにスタッカートがついているつもりで鳴らす。150小節目からの盛り上がりも、長めで。317小節目のバスーンからは再び「田園」である。音を長く伸ばすピッコロは大変だろうが、ここは「田園」のゆったりとした雰囲気を出したいので、限界までがんばってもらおう。343小節まで続く。
 404小節目からフィナーレである。テンポは遅く。最後の一つ前の和音が終わったところで、休符を長めに。勝利の熱狂はこの時までに終わらせ、最後の一音はこの曲を構成している全ての感情を収束させ、王者の風格をたたえて終わらせる。



 これで大体のところは固まった。問題はこれをどれだけ実現できるかだが・・・。まあ、あまり考えても仕方がない。とにかく、今は自分の表現力を信じて思い切りぶつかるしかない。

 翌週、大ホールの地下にある練習室。
 日本藝術大学管弦楽団のメンバーと、古戸を含め今年度の指揮者となった者の顔合わせがおこなわれた。
「彼は来てるね、ちゃんと」久那津は篠堀に言った。
「ああ、そうだな。もう顔を見せてない奴もいるから、絶対来ないと思っていたんだが」
「まあいいさ。どこまでやれるか、お手並み拝見といくか」

「ところで、新指揮者の諸君、最初の演奏会のテーマはベートーヴェンだ。この中でもうどの曲をやるか決まっている人はいるかな?」
 篠堀の問いに、問われた側がそれぞれ答えた。「第五」を選んだのは、古戸ともう一人だった。
「では、今週から早速練習に入る。本番の演奏順は、練習の状況を見て決めさせてもらう。最初のほうは、皆もオーケストラとのコミュニケーションがとりづらいだろうから、コンサートマスター主導でやってもらい、慣れるに従って君たち指揮者に任せていくようにする。倉石、大変だろうがよろしく頼む」
 篠堀が一人のヴァイオリン奏者に声をかけた。
「まあ、毎年の恒例行事ですからね」
 その男が篠堀に答える。
「じゃあ初回の練習は『第五』をやる古戸と村眉でやってもらおうか。古戸、授業が終わったら練習室に来てくれ。村眉は明日だ。いきなりだとは言わせないぞ。もう曲を決めてあるってことは、イメージはできているはずだからな」


「いきなり彼にやらせるのか?」解散後、久那津が篠堀に尋ねた。
「見込みのない奴は最初に篩い落としたほうがオーケストラの負担も減るだろう。本人のためにも、長々と引っ張るより早めに見切りをつけさせてやったほうがいい」


「古戸君だっけ、君はオーケストラの指揮をするの初めてなんだってな?」
 夕方の練習前、午前中の顔合わせで篠堀と話していた、倉石とかいう男が話しかけてきた。
「はい」
「とりあえず君のできる範囲でやってくれ。こちらは可能なかぎりそれに応じて演奏するが、どうしても駄目なときはストップをかけるから」
「わかりました」

 途中数回止まったものの、第一楽章を何とか一通り通したところで休憩となった。
「君の指揮はわかりやすいねえ」倉石が古戸に声をかけた。「まるで小学生が振っているみたいだったよ。いや、気を悪くしないでくれ、今のはわかりやすいという意味の例えなんだから」
「はあ、ありがとうございます」
「ただ、オーバーアクションにも程があるけどな。別にそこまで大げさにしなくてもわかるんだけど、まあいい、振り方は君に任せるよ」
「でも、本当に簡単な指揮で、良かったと思います」
 倉石の隣でヴァイオリンを弾いていた女性の奏者が口を挟んだ。
「真久田君にも、古戸君の指揮は新鮮だったかな?」
「下手に難しい指揮をする人より、ずっといいと思いますよ」
 そういった彼女の目はまっすぐに古戸を見つめてきて、古戸は少し面食らった。
「どうも、ありがとうございます」別に礼を言う必要もないのだろうが、古戸は彼女にそう言ってみた。
 横にいた倉石が一瞬不機嫌な表情をしたように見えた。
「本番まで満足な練習回数はないと感じるかもしれないが、別に君だけを相手にしていられるわけじゃないから、一回一回の練習を大事にな」


 翌日。古戸は同じ「第五」を指揮する村眉の練習を見学に来ていた。
 村眉の指揮は、古戸とは全く違っていた。虚飾を一切排除した、スコアからそのまま音を取り出したような音楽。聴き手に何かを考える余裕を与えないような速度で一気に進めていく。
「ええと、村眉さん・・・でしたっけ。古戸 勉といいます、初めまして。すごい指揮ですね」
 練習が終わってから古戸は村眉に話しかけた。
「こちらこそ初めまして。村眉 好夫です。昨日の君の指揮も見せてもらったよ」
「さっきの演奏は、一体何と例えていいか・・・」
「正直言って、僕と同じことを考えている人がいるとは思わなかった」
「同じこと、ですか?」
「君も気づいているんじゃないのか。1楽章の例の動機だよ。でも、動機の取り扱い方は同じでも、だいぶ違う音楽になるものだろう。君のように飾り立てる演奏も悪くはないと思うが、僕はやはり、素材そのものの良さを引き出した指揮を追求していきたいね」

 何回かの練習を経て、いよいよ演奏会当日である。
 この日のために今まで練習してきたんだ。後は自信を持って本番に臨もう。
「よし30分前だ、お客さんを入れるぞ」
 目蹴部の声がして、スタッフらしい学生がそれに反応して動き出した。
 またたくまに時間が過ぎていき、もう開演の時間となった。

 なんだか体に力が入らない。これが本番の緊張感なのか・・・いいや、ここで怖気づいてどうする!いいか古戸、練習でやってきた表現を思い出せ。自分だけの音楽を、お客さんに聴いてもらうんだ・・・
 古戸は自分にそう言い聞かせると、舞台へと歩いていった。

 
                   


 自分がどんな指揮をしたか、まったく覚えていない。
 気がつけば、全て演奏は終わっていた。演奏の前と終わった後にお客さんにお辞儀をしたのか、それすらも記憶にない。
 骨が崩れてしまうんじゃないかと思うような疲労感、それが身体に刻み込まれた”記憶”のすべてだった。

 翌日。
「いやーだいぶ緊張してたみたいだねー昨日は」瑠非違使が声をかけてきた。
「なにをやったのか、ぜんぜん覚えていないよ」
「君の指揮ぶりははっきり言ってめちゃくちゃだったな」
「そんなにひどかったか?」
「今まで俺が見てきた中でも珍しいくらいだったよ。指揮台から降りるときなんかもう息も絶え絶えで、そのまま倒れてしまうんじゃないかと思ったぞ。見ているこっちがハラハラしたよ・・・おっと、そんなに落ち込まなくていいぞ。それでも演奏自体は初めてにしては成功したといっていい出来だったからな」
「つまりは、オーケストラのメンバーに助けられたというわけか」
「そう自分を卑下したもんでもないさ。練習で固めていった結果が、あの演奏だったんだから」
「うーん・・・」
「そうそう、アンケートの結果聞いたか?」
「なんだよ、それ」
「うちのオーケストラの演奏会では、毎回お客さんにアンケート用紙を渡すようにしているんだ」
「で、どうだったんだ」
「うん、おおむね評価が三分の一。他はいろいろだな」
「何だよ、そのいろいろって」
「なんか違うってのが一番多いな。自分が聴きたかった『第五』とは違う、こんなものはベートーヴェンの音楽じゃない、というやつだよ」
「・・・そうかあ」
「何だよ、がっかりしたのか?」
「まあ、皆が皆分かってくれるとは思ってなかったけど・・・」
「あえて言っておくけど、アンケートの内容なんかどうだっていいんだ。大事なのは、このアンケートの集計制度始まって以来の回収率を記録したってことだ。正直、こういうアンケートの回収率はそんなに良くないらしいんだよ。今までは良くて三割ってとこなんだ。五割を超えたのは今回が初めてらしいよ。君の指揮が、それだけ強いインパクトを残したってことなんだよ」
「そうは言ってもなぁ・・・」
「むしろ、これは先駆者だけが経験できる栄誉といってもいい。いつの世も、新しいことを始める人には賛否両論つきまとうものだ。今回はちょっと否定的な意見が多かったけど、言い換えれば、今後この意見をはね返すだけの演奏をすれば、君の名声は不動のものになる」
「随分大げさな話だねえ・・・」
「そう感じるか?もう少し時間が経てば、これは大げさな話でもなんでもないってことが分かるかもしれないよ」

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