雨水を過ぎて、寒さにも慣れてきた頃。
この、冬の引き締まった空気が、四季の中で一番好きかもしれない。明け方の、まさに黎明期を象徴するような太陽、日没時の地平線の近くがわずかにオレンジ色に染まり、その上のどこまでも蒼く澄んだ空も魅力的だ。
「今日から明日にかけてはだいぶ雪が降りそうだ。もし暖房がなければわれわれは凍え死んでいたかもしれない。誰かが暖房というものをこの世に作り出してくれたおかげでわれわれは快適な生活を享受しているわけだ。人類が築き上げた文明の恩恵に浴しながら、ただそれを消費するだけの人間には、君たちにはなって欲しくない。人は誰かの世話になりながら生きているわけだからね。だから、我々もどうせ音楽をやるなら、誰かのためになるような音楽を作り出したいものだ。それが出来ないなら、厳しい言い方だが、音楽なんか、芸術なんかやめてしまったほうがいいかもしれない。その意味で、芸術家として注意しなくてはならないのは、富や名声を得ることだ。何も富や名声を得てはいけないと言っているわけではない。富や名声を得ることが目的となってしまってはいけないということだ。そういうものはあくまでも自分の行為の結果としてついてくるものであって、自分から求めるものではない」
「なかなか耳が痛いお話ですが・・・。つまり、ある種の覚悟が出来た人のみが芸術に携わることが出来る、ということですか」
「ま、今はあえて厳しい言い方をしてみたが。別に、一度やめてしまったらそれっきりといってるわけじゃない。一旦芸術の世界から離れてみることで見えてくるものもあれば、そこからその君の言う覚悟のようなものが育っていくこともあるだろう。そうやって回り道をして、改めて芸術の世界に戻ってくることも出来るかもしれない。そこまでできなくとも、人生の糧となればそれはそれで無駄ではないだろう。いずれにしても、芸術そのものは人間の究極目的ではない。こんなことを言うとなかなか受け容れられないかもしれないがね。芸術というものが快不快というものと分かち難く結びついている以上そういう反発感情が出てくるのはある意味当然だが、真理はえてしてそういう個人的特殊的な命題からは遠いところにあるものだ。芸術こそが全て、と思い込むのもごく一部の、人類史に残る傑作を生み出すような人には必要かもしれないが、そうではない大多数の人にとっては人生そのものを否定する有害な考え方にもなりかねない。特にこれから社会へ出て行く人は、あまりその辺を思いつめないで、人生という一つの大きな経験の中で、この分業化された社会の中で生きるということは最終的には他人に奉仕することにいきつく、ということを学習していってもらいたい」
「そういう意味では、オーケストラだってそうだ。分業体制でそれぞれの持ち場を守って一つの音楽を作り上げていくんだからね。あるいは音楽そのものも、作曲家と演奏家の関係にしたってそうだ。どちらが欠けても聴き手に音楽を届けることはできない。また、音楽から離れて生きていくにしても、例えば自分の周りの世界を美しくするために考え行動するとしたらこの経験も決して無駄にはならないのではないかな。自分の周りを美しくしようと思ったらまずは自分が『美しい状態とは何か』を理解していなければならないからね。結局それは自分の審美眼を鍛えることに他ならない。昨今のように醜い情報が溢れている世の中では特にね。・・・大変なことは間違いないが」
「今更私が言うまでもなく、この現実の世界は残念ながらすべてが美しいというわけではない。しかし、人間にはこの世界を認識し、変える力が与えられている。もちろん良い方にも、悪い方にもだ。どのように変えるかはその人の価値観、さらにそれを作り上げる元となる審美眼次第ではないかな。そしてこの世界の中の美を抽出した存在としての芸術が多くの人に共有されるならば、結果としてそれだけこの世界を美しいものとすることができる」
「さて、次回はいよいよ今年度最後の演奏会だ。テーマは特になし。それぞれ自分のやりたい曲を指揮してくれ」
練習室に集まった指揮者たちは自分のとっておきの曲目を挙げていった。
フランク、シベリウス、シューマン、ベルリオーズ・・・。古戸が挙げたのはベートーヴェンの「第9」だった。
「『第9』か。ソロイストとコーラスを集めてこなきゃならんな。学内で交渉してみよう」目蹴部が言った。
「それなんですが」
「なんだ?」
「コーラスについては、宗教音楽を専門にやっている人たちで編制できないでしょうか。それから・・・」
その場にいた全員が、古戸の言った意味を理解できないでいるようだった。
「・・・・少年合唱って、お前、『第9』でか?」古戸の意図を察知し得ないまま、篠堀が古戸に言った。
「はい、そうです」
「君、本当に『第9』を知ってるの?」いささか失礼な表現で、柄谷が質問した。
「もちろん知っています。でも、今回はどうしても少年合唱を使いたいんです」
「ンむ、なかなか面白いじゃないか。学生のうちは、いろいろとやってみることも大事だ」今江が言った。
「しかし、少年合唱団なんてヨーロッパならともかく、日本ではほとんど存在しないんじゃないのか?」また、柄谷が口を開いた。
「うちの付属小学校に、確か30人ほどの合唱団があったはずだ。後はほかに出来そうな子を選んで何とかするしかないな」
「すみません、お願いします」
「まったく、あいつは何を考えているんだ・・・」
「ずいぶん変わった注文をしてきたな」
「あいつ中心に回ってるわけじゃないのに・・・」
「まあいい。合唱団については宗教音楽のサークルをあたってみよう。あとは彼が我々の苦労に見合う音楽を創ってくれるか、だな」
「ンむ、しかし今年はなかなか実り多い年だったんじゃないか。標題音楽派の古戸に、絶対音楽派の村眉か。それ自体が合目的的で調和があるという一般的な芸術の定義からすれば絶対音楽こそが芸術の名に相応しいともいえるが、しかしそこからはみ出した何者かが音楽にはあるということも否定できないな」
「静的な、空間的な芸術と、動的な、時間的な芸術という風に対比できるのなら、後者こそが音楽の名に相応しいといえるかもしれませんね。・・・・・・・考えてみると、一つの作品に対して複数の解釈が可能ということ自体が妙というか、不思議な感じがしますね」
「でも、古戸の場合はいささかやりすぎではありませんか?価値観の多様化、といってしまえばそれまでかもしれませんが・・・」
「価値観の多様化というが、それを作品の解釈に適用するならば、あくまで複数の解釈が許される可能性があるということで、無制限の解釈が許されるわけではない。『分けのぼる麓の路は多くともおなじ高嶺の月を見るかな』という歌があるが、一つの作品を山に見立てるならば、頂上へ達するアプローチは一つかもしれないし、二つかもしれないし、もっとたくさんかもしれない。しかし、それは常に有限であって、頂上への道は無限には存在しない。しかもその解釈の数は予めわかっているわけではなく、芸術家が発見して初めて『そういう解釈が可能であった』ことがわかる。一旦誰かが発見してしまえばそれが当たり前のように見えるから、人はよくそのことを忘れてしまうがな。・・・もし仮に人間の創造物で無限の解釈が可能なものがあるとしても、芸術作品としての価値はどれほどのものか私は疑問だな。結局それは何を表現しているか定まらないという事に他ならない。これは何も解釈のようなミクロな話だけではなくて、作品そのものだってそうだ。バッハが無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを書いたから、プッチーニが『ラ・ボエーム』のために作曲したから、それらの作品はこの世に存在できたんだ。個々の作品とはつまり、美の形式の一つ一つともいえる。美とは言うまでもなく、調和を感じることによる快だな。・・・おっと失礼、ここは美学の講義をする場ではなかったな」
「現代音楽のように、さまざまな実験の果てに無駄なものがふるい落とされては芸術的なものが残っていく、・・・その繰り返しなのかもしれませんね」
「価値観の多様化という言葉を、ある作品が如何様にでも解釈できるという意味に解する人には、芸術は理解できない。部分が全体に奉仕し、全体が部分に奉仕するという関係が作れないような解釈というものは、つまりは間違っているということだ。芸術というものは無駄があってはならない。もちろん、完全に無駄をなくすことが人間にできるかどうかはわからんぞ。たぶん完璧なものをつくることなど人間には不可能だろう。それを認めた上で、少しでも完璧に近づけるために終わりのない努力を続けていく・・・・・芸術とはそういうものかもしれないな」
「韶の道は遠し、ですかな。そういう意味では、ダ・ヴィンチなどはそのあたりのことを身にしみて感じていたんでしょうね。あのちっぽけな絵に4年の歳月をかけてなお完成しなかったんですから」
「芸術家としてはこんな疑問を持ってはいけないのかもしれませんが、あえてお尋ねします。ある解釈というのは、結局は主観に過ぎないのではないでしょうか。客観的な解釈というものが有り得るんでしょうか。もちろん、『主観に過ぎない』という言葉それ自体が主観に過ぎないというパラドックス的意地悪さは抜きにしてです」
「いやむしろ、芸術家だからこそ厳しく問わなければならないだろう。主観に過ぎない、か。確かにそれはそうかもしれない。いやそうだろう。だが現時点ではそうであっても、他の多数の主観とともに比較考量され、生き残っていけばそれだけ客観に近づいたと言えるのじゃないかな。歴史的価値は別にして、古典が現に古典として存在しているのは、その歴史の中で無数の人の審美眼という厳しい批判の目に晒されてきていることでもあるんだ。1000年前の古典とは言い換えれば、1000年間人々の批判に耐え続け、今も残っている作品、1000年分客観に近づいた存在ということだ。古典と言う言葉に古臭いと言うイメージを持っている人は大変な考え違いをしている。本当に古臭いだけのものなら、この世から消えてなくなっているはずだからな。そして、人間が人間である以上必ず持っている普遍的な性質とは、その客観的存在そのものといっていいだろう」
「一人の人間が主張しているだけなら、或はある一時代だけ支持されてその世代がいなくなるとともに消えてしまうなら、単なる主観に過ぎないと片付けられてしまうかもしれないが、時代を超えて多くの人が賛同してくれるなら、それは客観に近づく。『永遠の名作』とは、それが究極のところまで行き着いた言葉ですな」
「なるほど。・・・しかし、彼のような人間はこの先、苦労するでしょうな」
「良く言えば独創性があり、悪く言えば独りよがりに陥りやすい。受け入れられれば良いが、そうでないときは・・・」
「だが、どんなに辛くとも、傍観者でいるよりも創造者でいることを選ぶべきなのだと思う。・・・その意思があり、相応しい能力があるのなら・・・」
「何か、企んでるらしいじゃないか」
「SPOCA」で、コーヒーを注文した瑠非違使が古戸に聞いた。
「うん、まあ、ちょっとね」
「篠堀先輩が、あいつは頭がおかしいんじゃないかって言ってたよ」
「そう思われても・・・仕方ないかな。でも、この世に『第9』が生み出されてからまもなく200年が経とうとしているのに、いまだにその真の姿が現れていないと思うんだ」
「それは、今までの演奏がすべて間違っているっていうこと?」
「そうじゃない。むしろ楽譜に示されたベートーヴェンの意図を表現するという意味では、俺のやろうとしていることのほうが異端だろう。でも、ベートーヴェンの交響曲というのは、楽譜だけでは未完成なんだ。大まかなところは出来上がっているけど、最後の仕上げの部分は指揮者に任されているんだよ」
「ふーン・・・まぁベートーヴェンに限った話じゃなさそうだけど」
「この曲の持つ潜在能力は、こんなものじゃない。ところで、今日はいつもの変な名前の紅茶だかお茶じゃないんだな。いたって普通じゃないか」
「なに、こんな日は普通にコーヒーぐらいでいいんだよ。外は寒いのに、ここは暖かい。これでお茶菓子があれば、充分に幸せじゃないか」そういいながら、瑠非違使はドーナツをつまんだ。
少年合唱を入れるという今回の発想は、やりすぎだと自分でも思う。本当はこんなものを入れなくても済む話なのだ。でも、あえて今回は誰の目にも明らかなように誇張する。今までの、特に4人の独唱の喉自慢的に聞こえる歌い方が俺には我慢できない。「交響曲つき合唱」にはもううんざりだ。
日が改まって、練習室。古戸は村眉の指揮によるベートーヴェン「第8」の練習を見学に来ていた。
基本テンポは速めで、美しくも切れのある、闊達な響き。無駄のない、凝縮された音楽。
ベートーヴェンというよりもむしろモーツァルトのような響きだ。第39番あたりに通じるものがある。
「相変わらず、圧倒的な凄い音楽ですね」
「これはどうも。君は『第9』をやるんだったな。実は俺も今回、第8と第9とどちらをやるか迷ったんだ」
「村眉さんが『第9』をやるとしたら、速いテンポの中にドラマを圧縮したようなものになるんじゃないんですか?」
「そう。そんな感じだな。そう言うところを見ると、君のはたぶん正反対なんだろうね」
「そんな感じです」
ベートーヴェンの「第9」。手元のスコアで約300ページ、まぎれもない大作である。「英雄」ですら長すぎて聴衆に途中で飽きられはしないかと心配しなければならなかった当時、このような長大な作品を世に出すだけでも大変な冒険だったと思うが、交響曲の中に独唱、合唱まで入れてしまうというのも常人には思いつかない発想だったろう。
貧困と病気、親族の問題、そして何よりも、何も聞こえなくなった耳。これほど困難な状況から、なぜ、こんな作品が書けたのか。当時の彼をとりまく状況を知れば知るほど、奇跡のように思えてくる。
第一楽章、Allegro ma non troppo,un poco maestoso(急速調だがあまり過度にしすぎない、わずかに荘厳に、堂々と)。ここはむしろ遅めのテンポ主体でいく。苦闘の始まり。第二ヴァイオリンとチェロ、ホルンの小さいが決してか細くはない響きで始まる。第一ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバスが代わる代わる入ってくる。管楽器はクラリネット、遅れてオーボエ。オーボエが入ったらフルートが出てくるまでテンポを落とす。その後は一定のテンポでクレッシェンド、最後で総休止。次の小節の一発目はフェルマータ。スタッカートの後のフォルテはゆっくりと。全体でフォルテシモ、低弦ははっきりと出す。スフォルツァンドはフェルマータ、次のフォルテはさらに長くフェルマータ。楽譜上次の小節でディミヌエンドだが、その前の六連符からかけておく。ゆっくりと。同じようにフルートが入ってクレッシェンド、今度は総休止はほんの一瞬でいい。ティンパニが入ってきて後半はリタルダンド。ほぼ全パートにben marcato(十二分に強調された)の指示。デクレッシェンドの後木管へメロディーが移る。ここからしばらく一定のテンポ。いくつかの波を経てヴィオラとチェロの旋律からオーケストラの合奏、ピアニッシモ。クレッシェンドしていって記号D、弦の32分音符、わずかにテンポを落とすが激しく、切れがよく弾いてもらう。一つ一つの音節を十分弾ききるように。管と弦が交代しながら、全パートが入ったらリタルダンド、フォルテシモでは特に遅く。その遅さを引き継ぎながら今度はわずかにアッチェレランド、頂点でテンポを安定させる。デクレッシェンドとともにリタルダンド、はじめのテンポに戻す。落ち着いた音楽。しばらくしてクレッシェンド、再び苦闘の始まり。低弦に旋律が移り、苦しくも美しい音楽が展開されていく。途中オーボエと第一ヴァイオリン、次いでフルートと第二ヴァイオリンにcantabile(歌うように)の指示。やがてヴァイオリン、ヴィオラにun poco meno p(わずかにピアノよりも小さく)。クレッシェンド、全パートフォルテで音階を下降していく。この楽章最後にして最大の苦難。最後はリタルダンドとクレッシェンド。ティンパニは節目節目で、音楽を破滅させてしまうぐらい、激しく。ロールの開始は特に強い打撃。スフォルツァンドの手前からリタルダンド、テンポを一定に戻し、その後は潮が引くように長いデクレッシェンド。最後リタルダンド。その後いくつかの波が押し寄せ、終結部の手前、弦とフルート、オーボエ。ア・テンポだが、これは違う。非常にゆっくりと。ファゴット、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの不気味なピアニッシモ。全パートが入ってきてクレッシェンド、ここはゆっくりと、一定のテンポで。三回目のフォルテシモの手前で、総休止。さらに遅く。最後の二つの音符は終わりにふさわしく、止まる寸前の遅さ。
第二楽章、Molto vivace(とても速く、生き生きと)。ここも、最初はむしろ遅く。ヴァイオリンのフォルテシモにティンパニと管楽器が応える序奏。最後全休符の小節ひとつを付け足す感じ。第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第一ヴァイオリン、コントラバスと流れるように主題を引き継ぎながら厚みを増していく。管打楽器も加わりクレッシェンド、譜面上非常に美しく四分音符とフォルテが並ぶ。記号Bでピアノ、現実の苦しさから目を背けようとしているかのような音楽が。(とはいえ音楽的な美しさは失われることはない。)リピートは譜面どおりにくりかえす。
なおも苦しいしのぎの場面が続く。Ritmo di tre battute(三つの小節でできた拍子)の指示通り、しばらく三小節単位で音楽が進行していった後、Ritmo di quattro battute(四つの小節でできた拍子)で四小節単位になる。フォルテからフォルテシモ、ついに避けることのできない苦難があらわれる。大きな壁、stringendo il tempo(テンポがだんだんせきこんで)、しかしまたもや逃げ道を見つけようとするかのような響き。マーラー「第九」の第二楽章を先取りするような、出口の見つからない焦りや混乱、しかもその響きのなんと魅力的なことか。いったん最初に戻って再びこの響きがあらわれるところまで進むが、すぐに消える。消えたところの全休符はリタルダンド。何かを誤魔化すように、あわただしくこの楽章が終わる。
第三楽章、Adagio molto e cantabile(非常に、そして歌うように遅く)。ここは反対に、不用意に遅くすることはせず、よどみなく流していく。現実逃避の夢の中に逃げこむ。ファゴットとクラリネットに第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが入ってくる序奏。第一ヴァイオリンの主題、mezza voce(半分の声)とは・・・ヴォリューム的な意味か。管弦楽器がそれぞれ主題を演奏していく、ここは音楽に合わせてテンポを変化させる。次の主題が第二ヴァイオリンとヴィオラによって始められる。アンダンテ・モデラート。同様に主題の変化に伴ってテンポも変える。第一番目のテンポに戻り、二番目の主題を第一ヴァイオリンが変奏。以後さまざまな変奏の形があらわれる。一瞬不安なクラリネットの旋律、しかしすぐにホルンがそれを打ち消す。Lo stesso tempo(同じテンポ)で第一ヴァイオリンが変奏を続ける。だが、やはり苦難は消え去ってはいなかった。現実に目を向けさせるような金管が鳴る。まるで泣いているような弦と木管の響き。しかしいつまでも泣いてはいられない。涙をふいて、苦難へ立ち向かう決心をする。
第四楽章、プレスト。管楽器とティンパニによる激しい立ちあがり。冒頭から極めて速く、嵐の中を進むがごとく。ゆっくり演奏すると各音符の意味を取られてしまい、フレーズ全体の意味がぼやけてしまう。ティンパニは苦難に立ち向かう強い意志を表現してもらうので、ここは思いっきり叩いてもらって構わない。管楽器も同様、少々汚くなってもいいから、激しく。むしろ少しぐらい汚い方がいいかもしれない。そしてここは、歌っては駄目だ。一音一音音を切って、わざと突っかかるような感じで、どんどん先に進んでいかなければだめだ。そうすることで、第3楽章再現部での、抵抗しきれずに持っていかれそうになる様がよりはっきりする。各楽章の冒頭が次々に再現される。ここも音楽の流れに従ってテンポが変わるが、いたずらに遅くすることは避ける。再現部の旋律の終わりでは若干アッチェレランドをかけた方がいいか。第3楽章冒頭再現部の後の低弦は、甘美な夢心地のまどろみから訣別し、目覚めるまでを描いている。まどろんでいる間はレガートとポルタメントを併用するような感じ、スタッカートがついた音符で目覚める。Allegro assai(大いなる急速調)、歓喜の歌が顔を出す。まずは低弦によって、喜びの音楽。そこへヴィオラとファゴット、そしてヴァイオリンが加わり、オーケストラ全体での「歓喜の歌」となる。
中途半端な安心、中途半端な安定、中途半端な幸福、中途半端な均衡、・・・・・・・いつ崩れるかも分からないそういったものを全て拒否し、真の幸福、真の安定、それらを追い求めたのが、この楽章だ。
ピアノとなって落ち着いてすぐ、プレスト、苦難の音楽。ティンパニに続いて管弦楽器が入ったところでフェルマータ。最初の音楽の再現、ただし今度は低弦が担当していた旋律をバリトンが歌う。Recitativo(叙唱)。弦楽器がcolla voce(声と一緒に)、非常に小さく、冷たく。バリトンが歓喜の歌を歌い始める。途中フェルマータが入り、ad lib.(即興で)、これは好きなだけのばせという意味か。なおもバリトン主体の進行、記号Dからコーラスが入る。オーケストラが区切りをつけ、アルト、テノール、バリトンが入る。途中でソプラノが参加する。一節歌い終えたところで今度はコーラスとオーケストラ。そしてこれまでの旋律の変奏。最後のフェルマータはmolto ten.(最大にテヌートの)、限界までのばす。
オーケストラのみの変奏、アレグロ・アッサイ・ヴィヴァーチェ。Alla Marcia(行進曲)。ピアニッシモで進み、テノールのソロが入る。続いてテノールとコーラス。終わりにNB.Diese 6 Takte konnen nicht vom Chor.wohl aber vom Solosanger ausgelassen werden(注意せよ。これらの6つの小節は合唱からは出来ない。良いがしかし放埓になる独唱歌手から)・・・意味がよくわからないが、要はテノールを合唱の中に埋もれさせるなということか?終わって、オーケストラのみによる長い「闘いの音楽」が始まる。まさに苦難に立ち向かっている状態、逆境をはね返し前進する。弦楽器が音階を激しく上下させたらリタルダンド。ホルンのソロ、537小節目からリタルダンドをかけ最後はフェルマータ、そしてピアニッシモからのクレッシェンドは出来るだけ時間をかけて、粘って。オーケストラとコーラスによる「歓喜の歌」の大合唱もゆっくりと、時間をかけた進行。どうしても急ぎたくなるが、ここで我慢できずに速いテンポを採ってしまうと今までの苦労が水の泡になってしまう。オーケストラに合唱を合わせるのではなく、合唱基準で、歌い手の意思の発露に合わせて。
アンダンテ・マエストーソ、「祈りの音楽」である。ここでついに、今回コーラスに少年合唱を入れた意味が解き明かされる。そう、この宗教的な響きを最大限に生かすためには、ぜひともこの少年合唱の純粋無垢な響きがほしかったのだ。
喜びだけでは苦難に立ち向かえなくなったとき、人はどうするか。「祈る」のだ。この「第九」を構成している要素のうち、最後まで残っていた要素がここで姿を現す。
フォルテシモは意識しすぎて汚い響きにしてしまってはいけない。オーケストラと対等に渡り合えたら十分だ。
Allegro energico,sempre ben marcato(激烈な急速調、つねにたっぷり強調された)光に満たされたような響き。730小節目、ピアノ、再びおごそかな響き。758小節目のクレッシェンド・デクレッシェンドで急速にリタルダンド。
Allegro ma non tanto(急速調だがそれほどでもない)。まさに指示通りのテンポで、喜びの音楽。ソロから合唱が加わってアッチェレランド、ポコ・アダージョの手前で急ブレーキ。元のテンポ、ソロが入ったらまたアッチェレランド、そして合唱からソロへ移る直前で急ブレーキ。四人のソロイスツが主旋律を渡しながら歌っていく、ここは音符にこめられた意味を引き出すために、丁寧に歌ってもらう。
弦楽器のピアニッシモからスタートしてアッチェレランド、スコア上の指示は無視して直前に使われたアレグロ・マ・ノン・タントでいく。ここも、フォルテシモは美しい響きを消さないよう控えめに。高音部のトランペットはクレッシェンド。スフォルツァンドではスコアにはないがシンバルも同じく、次の金管とソプラノが全音符で伸ばすところも同様。
終幕が近づいている。マエストーソで急激にテンポを落とす。919小節目の”Got”まさにここで、フェルマータ。
終結部、Prestissimo(きわめて急速に)、しかもアッチェレランドもつける。そして管楽器が三連符で昇りつめる直前、急激にリタルダンド。
週が改まって、練習室。
「これはまるで、『マタイ受難曲』の編成だな」練習が始まる直前、村眉が感想を口にした。
「バッハ的な要素を、前面に出そうとしてるんですかね。さすがに無理があるような気がしますが」隣にいた瑠非違使がそれを受けるように言った。
「君も、詳しいことは知らされていないのか」
「さすがに今回ばかりは、意図が読めませんね」
「こ・・・これは・・・・・・・」
リハーサルを聴いていた瑠非違使と村眉は、一様に感嘆の言葉を漏らした。
「なるほどな・・・これのことだったのか」
「まだ改良の余地はありそうだが、それにしても」
「こんなアイディアを、隠し持っていたとはね」瑠非違使と村眉は、顔を見合わせた。「だが・・・」
「さて、一般の人の反応は、どうかな・・・」
演奏会本番、新機軸を盛り込んだ「第9」。
神が降臨したかのような演奏。少なくとも、古戸にはそう思えた。
最高の出来だ!ミスがないわけじゃないが、こんなにも俺の指揮に応えた演奏をしてくれるとは。
だが・・・・・・・・・・
古戸が浴びた拍手は、この演奏にふさわしいとは思えないほど厚みの薄いものだった。
我慢できず舞台から消えた古戸は、すばやく着替えて入り口側に回り、帰路につくお客さんの群の中に入った。
聞こえてきた台詞は・・・
「なんか変だったねー、今日の『第9』」
「合唱に子供使ってたけど、何かあったの?」
「普通の合唱団を集められなかったんじゃない?」
「でも、なんかよかったよー、変に気持ちよかった」
「それはあんたがワイン飲んでるからでしょ」
・・・・・・・
「まあ、気を落とすなよ」お客さんが去って閑散としたホールで、瑠非違使が古戸に声をかけた。
「こんなものなのか・・・こんなもの、誰も求めていないってことなのか・・・」
「人は自分の価値観に合ったものだけを受け入れる。そして、不純物を極力排除した高純度の芸術を理解する価値観を有する人は、それほど多くはない。多くの人は、むしろ不純なものがたくさん入ったものを好むだろう。しかも今日の演奏は、バランスが良いとは言えなかった。見た目が整っていないものは、普通の人には口が合わないんだよ。いきおい芸術的に高い水準になればなるほど、その偉大さを理解する人は少なくなる。一流の芸術家に共通の悩みだな。『上手は目きかずの心にあいかなう事かたし』だよ」
「孤高の芸術家、か・・・俺もそのレベルに近づいた、と思いたいところだけど」
「芸術的に高い水準を維持しながら、わかりやすい。それこそが花を窮めた境地というべきで、究極の理想だけど、まさに言うは易しだよ」
人生の 喜怒哀楽を 糧となす それこそまさに 我が進む道
***おわり***
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