あの日以来、何も手につかない。
すべて虚しい、すべて無意味。
生命力が削ぎ落とされたような感覚。ただ椅子にもたれかかっているだけで、疲れを感じる。
今までの情熱に燃えた日々、あれは一体何だったのか。
考えてみれば、今までやってきた事が自分の幸福に繋がると、何の証拠もないのにそう信じ切っていた気がする。
そんな証拠などどこにも無かったんだ。ありもしない幻を追って、おめでたいことに俺は・・・・・・・何と無駄なことを・・・・
あの姿が、目に焼きついて離れない。
一体何なんだ、この、俺の中で急速に膨れ上がってくる黒い塊のような感情は・・・
非の打ちどころのないはずの1個の作品に欠けている、致命的な欠陥・・・
解決しきれない感情が、彼の頭の中に渦巻いたまま離れない。
こんなにも心をかき乱されたことは、今までなかった・・・・・・・
・・・考えてみれば、俺、彼女の何を知っていたというんだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただ練習の時に顔を見るだけで・・・・・・・・・・・・・・・
話をしたのも、一言二言・・・・・・・・・・
彼女にとって、俺は一体なんだったんだろう?
「おい、あいつはどうしたんだ」篠堀にそう聞かれた瑠非違使は、困惑した表情を作った。
「まだ、決めかねているみたいですね」
「あいつ分かってんのか?マーラーだぞ。そろそろ練習に入らないと、間に合わないぞ。これじゃ、せっかく早めにテーマを伝えた意味がないじゃないか。やらないならやらないで、そう言って貰わないと」
「どうしたんだ、ため息ばかりついて」
「SPOCA」で、キャメロンバリー・ティーを注文した瑠非違使は、カルタヘナ産ココアを前にして手を付けずにいる、何を話しかけても上の空に見える古戸に尋ねた。
「うん・・・こんなに自分がショックを受けるなんて、本当に意外だ」
「だから、どうしたんだよ」
古戸はためらったが、昨日の練習室での出来事を瑠非違使に話した。
「君は、彼女のことが好きだったのか」
「頭ではぜんぜん、そんなことは考えていなかったつもりなんだけど、やっぱり体は正直だな・・・」
「ふうん・・・その気持ちを、音楽にでもぶつけるしかないか」ほかに言うべき言葉が見つからず、しかたなしに瑠非違使は適当なことを言った。
「そうだな」半ば放心状態で、古戸が答えた。
「まあ、芸術は人の不幸を食って成長していくというしな・・・」
家に帰った古戸は、部屋に寝転んでマーラーの交響曲が録音されたCDを片っ端から聴いていった。
「第5」の第一楽章で、突然あることに気がついた。
「そうか・・・そうだったのか・・・!!!」
「葬送行進曲」と銘打たれたこの楽章、このタイトルは間違いだ。正しくは、「失恋行進曲」だ。それがこの音楽の真の姿だ。
この曲の冒頭、「第4」の第一楽章にも使われているトランペットによる暗い主題。
これと非常に良く似た開始の曲がある。
メンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」の中の一曲、「結婚行進曲」だ。
「第5」の第一楽章とまったく同じといっていい。ただひとつだけ、この後の進行が祝賀ムードになるか、沈鬱な葬列になるかの違いがある。
そういえばタイトルも・・・「結婚行進曲」に「葬送行進曲」・・・これはもう狙ったものとしか思えない。
間違いない。マーラーは、このメンデルスゾーンの曲と対極をなす作品として、この楽章を書いたんだ。
ついで第4楽章を聴き終えたとき、それを確信した。
さらに「第9」でも同じ感想が浮かんだ。
今回のプログラムが、これで決定した。
「・・・それはまたずいぶん思い切ったことを考えたな。今までに例がない」目蹴部が古戸に言った。
二回の演奏会で、一回目は「第5」の一、四楽章、二回目で「第9」の一、四楽章を演奏する。
「今までとは違ったマーラーの姿を、お見せできると思います」
「わかった。オーケストラに伝えておこう」
早速スコアの研究に入った古戸は、ブルックナー以上のドイツ語の嵐に悩まされたが、研ぎ澄まされた集中力でそれを乗り越えていった。
第一楽章、Trauermarsch.(葬送行進曲)、成就しなかった恋心の葬式。In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt.(悠然とした歩みで。厳しい。ある葬列の状態。)トランペットの暗いソロで始まる。ここの演奏法は二通り。素直に沈鬱に行くか、それともあえて軽快に行くか。軽快に行くことにする。冒頭のみ許されるこの演奏法、軽快さの裏にあるものを感じさせながら吹いてもらう。Triole:fluchtig(三連音符:一時的な)で音が上昇した後、音楽が破綻する寸前までフェルマータ。フォルテシモで全パート、ヴァイオリンとヴィオラにnicht teilen!(分けない!)の指示が出ているが、ちょっと意味がわからない。弦楽器はmit dem Bogen geschlagen(全くの弓そのもの)、弓で弾くということの強調?ほぼ全パートの三連符の三回目は思い切り遅く、一音一音を強調して。Pesante.(重苦しい。)不気味なトレモロ。ヴァイオリンとチェロの主題、Etwas gehaltener.(少しばかり控えめな。)途中からチェロのみになる。最初のトランペットの主題、今度は他のパートも一緒に。Wie zu Anfang(最初の状態)。再びフォルテシモで全パート、第二以下のトランペットはmit Dampfern(弱音器をつけて)、トレモロが終わったらDampfer ab.(弱音器を取って。)この間シンバルはklingen lassen!(鳴らしておく!)そしてトランペットのみになり、Nicht schleppen.(引きずらない)。すぐにSchalltr.auf!(拡声器をつけて!)フォルテシモ、ホルンの咆哮。終わりでフェルマータ。下降する音の指示はveloce(速く)だが、考えられない。むしろ少し遅く、強調するように。Wieder etwas gehaltener.(再びやや控えめな)クラリネット、ファゴット、ヴァイオリンの主題。途中でファゴットからオーボエへ交代、フルートが追加、そのフルートはsehr steigernd(はなはだしく増大させる)、クレッシェンドがついているのでそのことだろう。シンバルはvon Einem geschlagen.(全くのひとつの。)、まさにひとつずつ鳴らす。ヴァイオリンの旋律に変わり、打楽器群に対しての音符はnur Beck(ただシンバルだけ)。ヴァイオリンはmorendo(しだいに音を弱めてピアニッシモに)、ヴィオラもohne cresc.(クレッシェンドせずに)。Plotzlich schneller.Leidenschaftlich.Wild.(突然速く。情熱的な。荒々しい。)失恋の痛み、激情がほとばしり出る。ホルンはoffen(開いている)、よくわからない。トランペットはportamento(ポルタメント、音をなめらかに上げ下げする)しながらとてつもなく高い音。ホルンはprecipitato(大急ぎの)だがこれは決してテンポを速めるという意味ではない、切羽詰った感じを出せればいい。時を同じくしてヴィオラにはBogen wechseln.(弓を替える)、すぐにviel Bogen(たくさんの弓)。全パートPesante.(重い。)ヴァイオリンはbreiten Strich!(腕を伸ばす運弓法!)、チェロはbreit gestrichen!(のんびり弾く!)。ヴァイオリンは悲痛な感じを出す。3.u.4 Flote nehmen Piccolo.(三つ、四つ未満のフルートはピッコロを取る。)つまりピッコロ3、フルート1。ヴァイオリン、ヴィオラはviel Bogenwechsel(たくさんの弓の交換)。ピッコロはnehmen wieder grosse Floten.(また元どおり全体のフルートに替える)。第二トランペットはmit Dampfer(弱音器をつけて)。Allmahlich sich beruhigend.(徐々に心を落ち着ける)、トランペットが最初の主題を再現。Unmerklich zu Tempo I zuruckkehren.(知覚できない程度にもとのテンポに戻る)、チューバが心の闇を表現したようなとてつもなく低い音。Schwer.(重い。)最初は管楽器のみ。途中でヴァイオリンが入り、最初はひとりでohne Dampfer(弱音器なしで)、すぐにTutti(mit Dampfer)(総奏〔弱音器をつけて〕)。フルート、クラリネット、ファゴット、ホルンにsubito(突然に)の指示が出るが、ここでそんな指示を出す意味がわからないので無視。フルート、クラリネット、ヴァイオリンの旋律、ヴァイオリンはsingend(歌う)。ついでGriffbrett(指板)、意味不明。ティンパニのソロ。最初の主題の再現。その間にコントラファゴットはnimmt ein drittes Fagott.(ひとつを三番目のファゴットに替える)。第二クラリネットはmuta in A(A管に交換する)。ティンパニのソロの最後は急激に遅く。場面が変わるかのようなヴァイオリンの旋律。steigernd(高める、増大させる)とは、クレッシェンド、デクレッシェンドの意味か。ただならぬ雰囲気が漂っていき、トロンボーンが激情の前ぶれ、ホルンが入ってフェルマータ。Klagend.(悲嘆、哀悼、嘆息。)オーボエ、ファゴット、ホルン、第一トロンボーンはSchalltrichter auf!(拡声器を使う!)再び感情を爆発させ、Zuruckhaltend.(控えめな)長く音を伸ばしていたコントラファゴットとチューバはatmen!(呼吸する、発散する!)低弦が不気味な余韻を残しながら、トランペットが死刑を宣告するような響きで最初の主題。小太鼓はimmer p aber deutlich(つねにピアノだがはっきりした)ロール(細かい連打)。Streng im Tempo.(厳しくテンポ)とはテンポを守れの意味か。弦はverloschend(消える)。トランペットの旋律はNicht zuruckhalten.(感情を抑えない。)全体で、Schwer.(重い。)力尽きたように遅く。ホルンはDampfer ab!(弱音器を取って!)トランペットはDie Triole immer fluchtig.(つねに迅速な三連音符)、ヴァイオリンはcol legno(弓の木の部分で弦をたたいて)。第一トランペットがveloce(速い)音階を上る三連符。フルートの同じ形の三連符の音が消え、ほとんど聞こえない大太鼓が消えて、ヴィオラ以下のドキリとするようなピチカートでこの「ある精神の死」は終わる。
第四楽章、Adagietto.(アダージョよりやや速く)。だが最初は遅く。ハープの分散和音から入り、ヴァイオリンが冒頭の三つの音をリタルダンドで奏でたところで、休止を入れる。再開後は、音楽に託された感情の振幅によってテンポを変えていく。第一ヴァイオリンはseelenvoll(魂のこもった)。楽譜にはないがポルタメントを駆使してこの楽章の意味を明らかにしていく。スラーをすべてポルタメントに読み替えてもいいぐらいだ。主題がチェロに移り、Nicht schleppen.(引きずらない)(etwas flussiger als zu Anfang.)(初めと同様に淀みのない)。第二ヴァイオリンはbreiter Strich(幅の広い運弓法)。その旋律をヴィオラがunisono(同音で)受ける。Wieder ausserst langsam.(元に戻って極端に遅い。)第一ヴァイオリンはmit Empfindung(感情をつけて)、失恋の痛手が襲いかかってきてetwas drangend.(いくらか切迫する。)ついでfliessend.(よどみない。)だが反対に、思いっきりよどんで。第一ヴァイオリンはviel Bogen wechseln(たくさんの弓を交換する)。すぐにzuruckhaltend.(控えめな。)だがここも控えてはならない。第二ヴァイオリンにGriffbrett(指板、弦楽器の指で弦を押さえつける板のこと)、ちょっとわからない。感情が静まってきて、一瞬ハープのmit Warme.(暖かさをもって)、だがすぐに更なる激情、第一ヴァイオリンのgrosser Ton.(激しい楽音。)ハープが入ってようやくおさまる。第一ヴァイオリンとヴィオラはglissando(グリッサンド奏法〔滑るように音階を急速に奏すること〕)。終結部、弦楽器にZogernd.(ためらう。)第一ヴァイオリンはvibrato(音を震わせて)。最後の激情、Drangend.(切迫)。一つ一つの音を思い切り引っ張る。最後のフェルマータはlang(長々と)。attacca Rondo-Finale.(ロンド‐最終楽節が始まる。)だがもちろんこれで終わり。
実は、この楽章は手元のスコアでは5頁しかないのだが、聴いているとそんなことを感じさせない。一般に遅いテンポで演奏していることもあるだろうが、それだけ内容の濃い音楽ということだろう。
マーラーはこの作品を書き終えてすぐ、アルマ・シントラーと結婚する。だが、「第5」を書いているときのマーラーはまだアルマの愛を心の底からは信じきれていなかったんじゃないか・・・
この作品からはそんなマーラーの不安な心情しか感じ取れない。
「第9」第一楽章、Andante comodo(都合のよい適度にゆるやかな)。とても今から完成された音楽が始まるとは思えないような開始だ。もっとはっきり言うと、何か精神が崩壊してしまっているかのような印象。事実そういう音楽なのだから当然だ。コントラバスはFlag.(弦に軽く指を触れて倍音原理を利用して発する弦楽器の澄んだ高い音)、ホルンはoffen(Echo)(広々とした〔反響〕)。チェロにはHalfte(半分、中間)、何の半分かがわからない。ヴァイオリンが何かを慰めるような旋律をはじめる。第一ヴァイオリンとヴィオラにGriffbrett.(指板)、相変わらず意味不明。管楽器主体の恐ろしい響き、人間の生命力を根こそぎ奪い取るような音楽が始まる。落ち着く、というよりも生きる力がなくなっていく。Etwas frischer(少しばかりさわやかな)との指示は明らかな誤りだ。さわやかになんてする必要はまったくない。ハープはnicht gebrochen(濁らない)。Fliessend(よどみない)、フルート、オーボエ、クラリネット、第一ヴァイオリンはトレモロ。盛り上がっていき、ハープはEs moll(変ホ短調)のグリッサンド。Tempo I.subito(aber nicht schleppend)(突然第一のテンポ〔しかし緩慢にならない〕)、この世から光が失われていくような響き。ヴィオラとチェロはmit Dampfer(弱音器をつけて)、走馬灯のようなこの一節が終わったらDampfer ab(弱音器を取って)。Plotzlich sehr massig und zuruckhaltend(突然非常に適度の、控えめな)。チェロの旋律はnicht eilen(急いでいかない)。天国も地獄すらもない、この世界自体が消え去ろうとしているかのような音楽。Noch etwas zogernd,allmahlich ubergehen zu(依然として少しばかりためらう、徐々に移行する)。第二ヴァイオリンのaber(しかし)とは?ああ、下段に続くらしい。ausdrucksvoll(表現の豊かな)。ヴァイオリンにsimile(同様の)、つまり直前の音符の繰り返し。ホルンはzart gesungen,aber sehr hervortretend(繊細に歌う、しかし非常に明瞭に)。生温かい、むしろ熱帯夜。ラーガ(インド音楽の旋律定型)風。この世の別れを惜しむかのようなオーボエ。Allmahlich fliessender(次第によどみなく)、ホルンはma espress.molto(しかしひどく表現豊かに)。トランペットがこの後の奔流の予兆、ティンパニでそれが確定的となる。Mit Wut(激情を備えた)、Allegro risoluto(Nicht zu schnell)(果断な急速調〔迅速でない〕)。その激情は生命力をも回復させたように響き、しかしここは長くは続かず小康状態。Leidenschaftlich(情熱的な)、あきらめきれないヴァイオリン、molto appassionato(非常に熱情的な)。また盛り返し、Plotzlich langsamer(Das Tempo so weit massigen,als notig)(突然遅い〔テンポをそのようにずっと適度なものにする、必要なように〕)。第一ヴァイオリンにsich Zeit lassen(自由に使わせる時間)、これは一体?また、stets mit hochster Kraft(常に最高の力をもって)。Sich massigend(節度を守る)、ここからまた落ち着いていってSchon langsam(すでに遅い)。死神が待っている。Schattenhaft(影のような、もうろうとした)。Allmahlich an Ton gewinnend(徐々に(美しさ・楽しさ・効果などが)いっそう増す音の上に)?ホルンはweich geblasen(しなやかに吹き鳴らす)、力がないゆえのしなやかさ。フルートとヴァイオリンソロが交代で旋律を受け持つ。終わってNicht schleppen(引きずらない)、チェロはFliessend(よどみない)。フォルテシモで次なる激情の予感。Etwas drangend(少し切迫する)、トランペットが入ってBewegter(quasi Allegro)(心を動かす〔ほとんど急速調〕)。以前ほどの力は感じさせないが感情が高ぶる。すべてのパートの三連符をveloce(速い)、頂点が迫り、Pesante(Hochste Kraft)(重い〔最高の力〕)。ホルンはprecipitato(大急ぎの)、トロンボーンとバス・チューバはmit hochster Gewalt(最高の激しさを伴って)。Einhaltend(守る)。ティンパニとともに死の宣告。Gehalten(維持する)が、トロンボーンとバス・チューバはverklingend(消え行く)。ホルン、ヴィオラ、トランペットによって、急速に視界が狭まっていく。Wie ein schwerer Kondukt(ある重い葬列の状態)、ヴァイオリンはmartellato(つちでたたくような力強いスタッカートの)、意識の混濁、この世が遠くに去ろうとしている。Wie von Anfang(はじめの状態)、第一ヴァイオリンはGriffbrett(指板)。Anwachsend(増大する)とは何か。無視する。激情が現れようとするが、もう以前のような力はない。Plotzlich bedeutend langsamer(Lento)und leise(突然著しく遅い〔ゆっくりと〕そしてほとんど聞こえないくらいの)、Misterioso(神秘的な)。ヴァイオリンソロからフルートへ、弱弱しい旋律。フォルテシモがそれを中断させ、Nicht mehr so langsam(もはやそれほど遅くない)、弦はTutti(総奏)。蝋燭が燃え尽きる寸前のような、一瞬明るい未来を示すような音符の上昇、Etwas belebter(いくらか活気のある)。すぐに消え、Schon ganz langsam(すでに完全に遅い)。ハープからホルンへ、澄みきった響き。Sehr zogernd(非常に躊躇する)、ここで終わるか、それとももう少し生きてみるか、ということか?オーケストラの音はSchwebend(漂っている、浮かんでいる)。Wieder a tempo(aber viel langsamer als zu Anfang)(再びもとのテンポで〔しかし始めよりもずっと遅く〕)。ヴァイオリンソロのschmeichelnd(お世辞を言う)とは何だろう。ともかく音楽はごくわずかづつ減衰していき、ハープと弦のFlag.(フラジョレット)で終わる。
第四楽章、アダージョ。
この楽章の方針ははっきりしている。メロディーを思い切り響かせる。場合によってはポルタメントやヴィブラートを入れる。テンポはそれほど動かさず、旋律を浮かび上がらせる程度にとどめる。
ヴァイオリンの悲劇的な旋律で始まる。Sehr langsam und noch zuruckhaltend(非常に遅いそして相変わらず控えめな)だが、控えめにする必要はない。二小節目でリタルダンド。主部に入り、美しいメロディー。第一ヴァイオリンにstets grosser Ton(常に長い音)とは音符の枠をはみ出すぐらい鳴らせとの指示だろう。ファゴットが不気味な旋律。Straffer im tempo(引き締まった(緊張した)テンポ)、激情。ホルンの再現はstark hervortrtend(力強く明瞭な)、第一ヴァイオリンはsubito,ma espress.(いきなり、だが表情豊かに)。展開部、Fliessend(よどみない)、そしてEtwas drangend(unmerklich)(少し切迫する〔知覚できない〕)。チェロとファゴットの暗い音、Plotzlich wieder sehr langsam(wie zu Anfang)und etwas zogernd(突然再びはなはだしく遅い〔最初のように〕そして多少躊躇する)、チェロはohne Empfindung(感情を伴わずに)。ヴィオラのソロ、ohne Ausdruck(表現せずに)。ヴァイオリンのソロから低弦と木管、Etwas(aber unmerklich)drangend(少し〔だが知覚できない〕せきたてる)。再びホルンが入り、Molto adagio subito(八分音符wie im letzten Takte die四分音符)(突然非常にゆっくりと〔八分音符が直前の小節の四分音符に当たる長さ〕)。クレッシェンドして、ヴァイオリンにGriffbrett.(指板)、次いで第一ヴァイオリンはverklingend(消え行く)。ハープが入り、Stets sehr gehalten(常に非常に控えめな)、木管主体の弱弱しい音楽。Fliessender,doch durchaus nicht eilend(流れるような、それにもかかわらず徹頭徹尾急ぐ)、第一ヴァイオリンはheftig ausbrechend(猛烈に感情が爆発する)。金管が入り、Nun etwas drangend(さあ少しせきたてる時だ)。大太鼓がクレッシェンド、Sehr fliessend(非常によどみない)の指示は間違いだ。ゆっくりと、引っ張って。シンバルは四分音符だが、klingen lassen(響かせておく)の指示が出ているので十分小さくなるまでとめない。Tempo I.Molto adagio(Noch breiter als zu Anfang)(始めのテンポ。非常にゆっくりと〔初めのときと同様に依然としてのんびりした〕)。トロンボーン、バス・テューバはsehr getragen(大変ゆったりとした)。弦と木管の静かな音楽、第一ヴァイオリンはersterbend(消え失せる)。終結部、Langsam und ppp bis zum Schluss(ゆるやかなそして終わりまでピアニシシモ)。第一ヴァイオリンの旋律、mit inniger Empfindung(心からの感情をもって)、しばらくしてzogernd(ためらう)。別れを惜しむように長く伸ばし、Ausserst langsam(極度に遅い)。
翌週、練習前、古戸が練習室に入ってくると真久田がほかのヴァイオリニストと雑談しているところだった。
真久田は急に古戸の方を振り向いて、すぐヴァイオリニストに向き直った。
「留学の準備は進んでる?まあ真理ちゃんのことだから、大丈夫だとは思うけど」
「でも、さびしくなるなー」
「もう会えなくなっちゃいますね」
練習には、真久田も倉石も参加していなかった。
「今度倉石君のかわりにコンサートマスターを務めることになった余勢です。よろしく」一人のヴァイオリニストが古戸に挨拶した。
「倉石さんは、どうしたんですか?」
「彼はウィーンへ留学するそうだ。その準備のためにオーケストラを抜けたんだよ」
そうなのか?
・・・ということは彼女も!? そんな・・・ 俺の知らないところで・・・ ひどい・・・
二人の事をいろいろと聞きたいところではあったが、場違いであることを意識して、古戸は何も聞かず練習に入った。
「・・・しかし、いくら何でもやりすぎじゃないのか、これは?」
「第5」第4楽章の練習の合間に余勢にそう問われた古戸は、それに対して頑なな表情で答えた。
「いえ、これで良いんです。こうでなければならない」
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
<和泉式部>
やはり、気になる・・・いや、「気になる」という言葉が適切かどうか、わからない・・・いや、適切なわけがない・・・この、どうにもしようがない、表現し難い感情・・・
もうすぐ、手の届かないところに行ってしまう・・・・・・・・・・
時間がない・・・神様、もう一度チャンスを・・・!
・・・だが、もう一度会ってどうする?会って、何を聞く?どう聞く?そもそもどう切り出す?
それとも、こちらから弁明するか? いったい何を? なぜ弁明しなければならないのか?
頭の中が混乱しきったまま、帰り支度をしにロッカー室へ向かった。
皮肉にも、そこで一人で何かを書いている彼女に出会った。
彼女はこちらに気がついていない。
何か話しかけなくては・・・何かを・・・ 何を?
古戸は、何もすることができず、そこを立ち去った。
自分の無力を痛感した時間が過ぎていった。
大きな虚脱感が襲ってくる。
一体、俺は何を・・・せっかくのチャンスを無為に・・・
俺と彼女を繋ぎ止める何か・・・もうない・・・・何もかも・・・・・不可能・・・・・・・
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
<式子内親王>
練習、本番、終了、
・・・・
・・・・
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願わくば 艱難辛苦を 糧として 大きく育て 我が魂よ
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