まったく、人は人であるということ自体で自由にはなれないものだ。(第1巻・56頁)
士官学校の戦史研究科に入ったヤンだったが、同科が廃止の憂き目に遭う。戦略研究科への転科を渋るヤンを、嫌なら辞めてもよい、但し今までの学資を返還するように、と言って教官が説得する。
ヤンのため息が聞こえてきそうな言葉。もっとも、これは何も金の問題に限るまい。
何でもそうだが事後処理が最大の労苦なのだ(第1巻・104頁)
アスターテ会戦で敗れた同盟軍をヤンはまとめて帰らなければならない。混乱した状況に秩序を持たせることが、いかに困難なことか。
黙ってたえているばかりで事態が改善された例はない、誰かが指導者の責任を糾弾しなくてはならないのだ。(第1巻・150頁)
アスターテ会戦戦没者の慰霊祭でジェシカがトリューニヒトを糾弾した後、宇宙港にてヤンが思ったことである。何か不幸なことが起こったとき、その悲しみに耐えつつ、不幸の原因を探る。骨が折れることである。その結果、責任の所在が明らかになったら、それを追求しなくてはならない。そこまでやってはじめて、改善の糸口がつかめるわけである。
本来、名将と愚将との間に道義上の優劣はない。愚将が味方を100万人殺すとき、名将は敵を100万人殺す。その差があるだけで、殺されても殺さないという絶対的平和主義の見地からすれば、どちらも大量殺人者であることに差はないのだ。(第1巻・151頁)
アスターテ会戦で多数の死者を出した同盟軍の提督は「道義上も恥じるべき」と言ったジェシカ。それを聞いたヤンの考えがこれである。名将・愚将に限らず、何人にも罪を犯させず問題を解決する―――外交交渉による決着―――が最良とされる所以である。
出世なさって、か。それはより多くの敵を殺せということだと、彼女は気づいているだろうか。多分、いや絶対に気づいてはいないだろう。それは銀河帝国に彼女と同じ境遇の女性を作れということでもあるのだ。(第1巻・151〜152頁)
ヤンの独白。彼女とはジェシカのことである。
「子供ってのはな、おとなを喰物にして成長するものだ」(第1巻・160頁)
学校を卒業後軍人になると言ったユリアンに対して、ヤンは必ずしも軍人になる必要はないと答える。その場合養育費を返さなければならないので、ユリアンがそこまで迷惑はかけられないと言った時の言葉。まさにその通りだと思う。親の手助けなしで成長できる子供などいるはずがない。それが必要な手助けならば、遠慮せず受ければいいのだ。
「恒久平和なんて人類の歴史上なかった。だから私はそんなもの望みはしない。だが何十年かの平和で豊かな時代は存在できた。吾々が次の世代に何か遺産を託さなくてはならないとするなら、やはり平和が一番だ。そして前の世代から手渡された平和を維持するのは、次の世代の責任だ。それぞれの世代が、後の世代への責任を忘れないでいれば、結果として長期間の平和が保てるだろう。忘れれば先人の遺産は食いつぶされ、人類は一から再出発ということになる。(中略)要するに私の希望は、たかだかこのさき何十年かの平和なんだ。だがそれでも、その十分の一の期間の戦乱に勝ること幾万倍だと思う。」(第1巻・193頁)
イゼルローン攻略戦の前、ヤンはシェーンコップに、イゼルローンが同盟軍の手におちた際、帝国と休戦協定を結ぶというシナリオを説明してみせる。それに対してシェーンコップが「果たして恒久的なものになるか」と疑問を出したときのヤンの言葉。人間の文明がここまで発展できたのは、やはり平和があったからであろう。
1945年以来、日本はとにもかくにもどことも戦争状態に入らずに来ている。こうやって一年一年「実績」を積み上げていくことが、結果として平和国家としての国際信用を得ることになるのだ。現在日本は好戦的な国家に囲まれており極めて難しい立場にあるが、政治家や官僚の賢明なる判断に期待したい。
「武人の心だって?」(第1巻・213頁)
イゼルローンをだまし取られた?ゼークト司令官は、降伏か退却かの二者択一を迫られたわけだが、彼はそのどちらも選ばなかった。全艦突入して玉砕!もはや正気の沙汰ではない。自分一人ならそれも良かろう。どうぞご勝手に。と言いたい所だが、他人をも巻き込むところに罪深さがある。そんな真情がこもったヤンの台詞。
「私は少し歴史を学んだ。それで知ったのだが、人間の社会には思想の潮流が二つあるんだ。生命以上の価値が存在する、という説と、生命に優るものはない、という説とだ。人は戦いを始めるとき前者を口実にし、戦いをやめるとき後者を理由にする。」(第1巻・372頁)
アムリッツァの戦いが終わり、イゼルローンへ帰還する途中での、ヤンとフレデリカの会話から。一つ付け加えるならば、前者の説を口にする人間の多くは自分の生命は例外としている、ということだ。当然のことながら、前者の説と後者の説が同一人物の口から語られることはない。
「人間は勝つことだけ考えていると、際限なく卑しくなるものだな」(第1巻・396頁)
審判が笛を吹かなければ何をやっても良いと思っている一部のサッカー選手や対戦相手に客席からレーザー光線を当てる観客に、この言葉を贈ろう。
目上の者を、あまり面と向かってほめるものではない。相手が軟弱な人物なら、うぬぼれさせて結局だめにしてしまうし、硬すぎる人物なら、目上にこびる奴だとうとまれるかもしれない。(第2巻・169頁)
ユリアンに対するヤンの説教。世の人々が理性と見識に富んだ人ばかりというわけではないから、陳腐ではあるが必要なことであろう。
人間の歴史に、「絶対善と絶対悪の戦い」などなかった。あるのは、主観的な善と主観的な善との争いであり、正義の信念と正義の信念との相克である。一方的な侵略戦争の場合ですら、侵略する側は自分こそ正義だと信じているものだ。戦争が絶えないのはそれゆえである。(第2巻・258頁)
およそ人間の考えることで、絶対に正しいなどということはありえない。そこまでは言いすぎだとしても、どこかで間違っているという可能性を考えるということは、特に為政者のような重い責任を持っている人にとって必要なことだと思う。
信念とは願望の強力なものにすぎず、なんら客観的な根拠を持つものではない。それが強まれば強まるほど、視野はせまくなり、正確な判断や洞察が不可能になる。だいたい信念などというのは恥ずかしい言葉で、辞書にのってさえいればよく、口にだして言うものではない。(第2巻・258頁)
ヤンが辞書を作ったならば、「信念」を引くとこのようになるであろう。
「では問うが、吾々は150年の長きにわたって帝国と戦い、打倒することができなかった。今後また150年を費しても打倒できないかもしれない。そうなったとき、貴官らは権力の座にずっとしがみつき、市民の自由をうばいつづけて、一時の方便となおも主張するつもりか」(第2巻・279頁)
救国軍事会議議長代行エベンス大佐の自己弁護に対して発せられたヤンの問いかけ。
「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することができない状態を、政治の腐敗というんだ。貴官たちは言論の統制を布告した。それだけでも、貴官たちが帝国の専制政治や同盟の現在の政治を非難する資格はなかったと思わないか」(第2巻・280頁)
エベンスが、政治の腐敗を正すという「大義」があったと言ったときのヤンの台詞。言論を統制しなければ、ジャーナリズムが乱れ、国益に反するような有害な情報が流れる、という主張には一瞬頷きたくなるが、やはりこれも国民の「成長」を信じ、時間をかけて国民全体の判断力を養っていくべきなのだ。コンピューターのネットワークにも同じことが言えると思う。
正論を吐く人間はたしかにりっぱであろう。だが、信じてもいない正論を吐く人間は、はたしてどうなのか。(第2巻・356頁)
「徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず」(『論語』憲問篇より)
クーデター鎮圧後の記念式典で、トリューニヒトと会話したヤンの疑問。その疑問の根は、その正論を吐く人間の言行不一致から来るかすかな矛盾の臭いであろう。
「トリューニヒトに会ったとき、嫌悪感がますばかりだったが、ふと思ったんだ。こんな男に正当な権力を与える民主主義とはなんなのか、こんな男を支持し続ける民衆とはなんなのか、とね(中略)我に返って、ぞっとした。昔のルドルフ・フォン・ゴールデンバウムや、この前クーデターを起こした連中は、そう思い続けて、あげくにこれを救うのは自分しかいないと確信したにちがいない。まったく逆説的だが、ルドルフを悪逆な専制者にしたのは、全人類に対する彼の責任感と使命感なんだ」(第2巻・360頁)
民主政治は原理的に、選挙の投票率が落ちるほど本来の理念から外れて衆愚政治に堕していく。投票率が落ちるということは、それだけ「民主主義」を理解していない人が増えるということである。つまり完全な民主政治を実現させるには、その構成員の全てが「民主主義とは何なのか」を理解していなくてはならない。考えてみればこれは大変に厳しい条件である。生まれたばかりの赤ん坊は、当然の事ながらそのような事情は理解していない(従って、選挙権を持つ年齢までに民主主義について理解させなければならない)。こうして、民主主義を理解しない構成員は常に出現する可能性を持っている。従って、彼らを教育する機関は不可欠である。とはいえ、そのような完璧なシステムを実現させた国家は今のところ皆無である。民主政治から衆愚政治に傾き続けた結果、このヤンの台詞にあるような個人または組織が出現するとしたら・・・・?
「一度も死んだことのない奴が、死についてえらそうに語るのを信用するのかい、ユリアン?」(第3巻・21頁)
人は死んだらどうなるか。誰でも考える疑問だが、死んでみなければわからない、というのがその答えである。(もっとも、死んでもわからないかもしれないが。)人間が有効な知識として獲得できるのは「この世のこと」だけなのだから、「あの世のこと」まではわかるはずがない。それだからこそ宗教が存在する余地が生まれるのだが、本物の宗教と偽物の宗教を見分ける判断材料の一つがこれである。仏陀は死後の世界については分からないとして一切語らなかったそうだ。
何百年かにひとり出現するかどうか、という英雄や偉人の権力を制限する不利益より、凡庸な人間に強大すぎる権力を持たせないようにする利益のほうがまさる。(第3巻・289頁)
専制政治に対する民主政治の利点は、個人をないがしろにする社会を出現させないこと、に尽きるのではないか。だとすれば、そのような社会に化けてしまった民主政治は、もはや民主政治とは呼べない。自らその存在意義を否定することになるのだから・・・。
国家が消滅しても、人間は残る。「国民」ではなく、「人間」が、だ。国家が消滅して最も困るのは、国家に寄生する権力機構中枢の連中であり、彼らを喜ばせるために、「人間」が犠牲になる必要など、宇宙のまでその理由を探しても見つかるはずがない。(第3巻・310〜311頁)
自由惑星同盟が滅亡する可能性に思いをはせたヤン。「滅亡」というと何かこの世の終わりのように感ずる人は多いと思うが、上に立つ人間が代わるだけで自分たちの生活は何も変わりはしない、ということになるのかもしれない。もちろん、より凶悪な支配者が現れるという可能性もあるが。
どのような宗教でも、どのような法律でも、基本となる項目は古来さだまっている。
殺すなかれ。奪うなかれ。あざむくなかれ――
ヤンは自らを顧みる。どれほど多くの敵と味方を殺し、どれほど多くのものを奪い、どれほどの回数にわたって敵をあざむいたことか。それが現世において免罪されているのは、単に、国家の命令に従ったから、という一事によるにすぎない。まことに、国家というものは、死者をよみがえらせる以外のことは、すべてなしうる力を有している。犯罪者を免罪し、その逆に無実のものを牢獄へ、さらに処刑台へと送りこみ、平和に生活する市民に武器を持たせて戦場へと駆りたてることもできるのだ。(第3巻・359〜360頁)
ユリアンに、軍人になる許可を頂きたいと迫られたヤン。国家による保証がなければ、軍人とは大悪人である事を知り尽くしているからこそ、ユリアンを軍人にしたくないのであった。
「ルドルフ大帝を剣によって倒すことはできなかった。だが、吾々は彼の人類社会に対する罪業を知っている。それはペンの力だ。ペンは何百年も前の独裁者や何千年も昔の暴君を告発することができる。(中略)」
「ええ、でもそれは結局、過去を確認できるというだけのことでしょう?」
「過去か!いいかい、ユリアン、人類の歴史がこれからも続くとすれば、過去というやつは無限に積みかさねられてゆく。歴史とは過去の記録というだけでなく、文明が現在まで継続しているという証明でもあるんだ。現在の文明は、過去の歴史の集積の上に立っている。わかるかい?」(第3巻・361頁)
ヤンと、彼に自分が軍人になることを許可してもらいたいユリアンとの会話から。実に、歴史の存在意義、歴史家の存在意義の一つがここにある。ユリアンの台詞にあるように、確かに過去の歴史は動かしようがない。その確定された事実を確認するだけである。もはや過去となった罪に対して、裁いたり、刑罰を科したりすることはできない。しかし、そのような過去の過ちを知ることにより、より良い方向へとこれから生まれるであろう歴史を動かすことができる。人間がこれまでの歴史を確認する作業をやめたとき、人間の進歩も止まるであろう。
「必要がなくなったから傍に置かないとか、必要だから傍にいさせるとか、そういうものじゃなくて・・・・・・必要がなくても傍にいさせる、いや、必要というのは役に立つとかたたないとかいう次元のものじゃなくてだね・・・・・・」(第4巻・166頁)
「政府の強い要望により」フェザーンへの転任が決まったユリアン。その旨をユリアンに伝えた後のヤンの台詞。常日頃私たちは、他人を「自分の役に立つか立たないか」といった価値基準で見ていないだろうか。人間が生きるというのは、決してそれだけではないことを思い起こさせる重要な台詞。
「ユリアン、国家なんてものは単なる道具にすぎないんだ。そのことさえ忘れなければ、たぶん正気をたもてるだろう」
人類の文明が生んだ最悪の病は、国家に対する信仰だろう、と、ヤンは思う。だが、国家とは、人間の集団が生きていく上で、たがいの補完関係を効率よくすすめるための道具であるにすぎない。道具に人間が支配されるのは愚かしいことだ。いや、正確には、その道具のあやつりかたを心得ている極少数の人間によって、大多数の人間が支配されるのだろう。(第4巻・176頁)
フェザーンに行くことを形の上では承諾しながら、いまだ気持ちの整理のついていないユリアン。ヤンがユリアンと話し合っているときの台詞。国家の定義の一つといってよいが、つい忘れそうなものでもある。人間より、実在しない概念のほうに価値があるという錯覚をよく起こすからだ。
愛国心が人間の精神や人類の歴史にとって至上の価値を有するとは、ヤンは思わない。同盟人に同盟人なりの愛国心があり、帝国人に帝国人なりの愛国心がある−−結局、愛国心とは、ふりあおぐ旗のデザインがたがいに異なることを理由として、殺戮を正当化し、ときには強制する心情であり、多くは理性との共存が不可能である。特に権力者がそれを個人の武器として使用するとき、その害毒の巨大さは想像を絶する。(第5巻・165頁)
名言とはいえないかもしれないが、次なる名言を生み出す母体として。
ランテマリオ星域の会戦後元帥に昇進したヤンに向かって、アイランズ国防委員長が自分にも愛国心があることを述べた。「愛国心」の定義、というには狭すぎる定義だ。正確に定義するにはやはり次の問題に答えなければならない。すなわち、愛とは何か、国とは何か、心とは何か?
「・・・専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです。その罪の大きさに比べれば、100人の名君の善政の功も小さなものです。・・・」(第5巻・361〜362頁)
ラインハルトとヤンの会見から。専制政治と民主政治、どちらがよりよい政治形態か。その結論的なこのヤンの台詞である。蛇足ながらつけ加えると、専制政治は、その政治の害悪を自分たちでは修正しようがない。政治的な自由、政治に参加する権利がないわけである。
人間の精神のうちでもっとも貴重なもの――権力と暴力に抗して自由と解放を希求する精神がはぐくまれるには、強者からの抑圧が不可欠の条件となるのだろうか。自由にとってよき環境は、自由そのものを堕落させるだけなのだろうか。(第5巻・366頁)
ラインハルトとの会見を終えて、ヤンの独白。
自由それのみを与えれば、堕落は避けられないのかもしれない。それを防ぐためには、自由のよって立つ基盤が何であるか、を教育する必要がある。
「法にしたがうのは、市民として当然のことだ。だが、国家が自らさだめた法にいて個人の権利を侵そうとしたとき、それに盲従するのは市民としてはむしろ罪悪だ。なぜなら民主国家の市民には、国家の犯す罪やに対して異議を申したて、批判し、抵抗する権利と義務があるからだよ」(第6巻・222頁)
ユリアンに語ったことばの一つ。
国家といえども、法には従わなくてはならない。考えてみれば当たり前のことだが、我々はよく見逃してしまいそうになる。
「運命というならまだしもだが、宿命というのは、じつに嫌なことばだね。二重の意味で人間を侮辱している。ひとつには、状況を分析する思考を停止させ、もうひとつには、人間の自由意志を価値の低いものとみなしてしまう。」(第8巻・46頁)
ラインハルトとは戦わなければならない。ユリアンはそれを「宿命」と言い、それに対するヤンの台詞がこれ。補足するなら、「運命」とは、このまま何もしなければ現実のものとなるであろう未来、「宿命」とはどうあがいても変えることのできない決定された未来のこと。
「つまりは、人は人にしたがうのであって、理念や制度にしたがうのではないということかな」(第8巻・134頁)
「回廊の戦い」の死闘の中で、ファーレンハイトやシュタインメッツが戦死し、ミュラーがラインハルトを守る。もし皇帝がラインハルトでなかったら、ここまでの忠誠心を発揮できたかどうか。そんな気持ちがこもったヤンの台詞。理念や制度が非の打ちどころがなければ、それに従うのであろう。人に従うのは、つまりは理念や制度の不備をその為人で補っているということであろう。
「どれほどりっぱな人間であっても、属している陣営が異なれば殺しあわねばならないんだからなあ」(第8巻・306頁)
「いい人間、りっぱな人間が、無意味に殺されていく。それが戦争であり、テロリズムであるんだ。戦争やテロの罪悪は、結局そこにつきるんだよ、ユリアン」(第8巻・322頁)
二つとも、ユリアンに向かっていった言葉。解説は不要だろうが、抜き出してみた。これらの言葉だけで完結している。
「戦術は戦略に従属し、戦略は政治に、政治は経済に従属するというわけさ」(第8巻・327頁)
イゼルローン再占領後の台詞。何かをやりたくても金がなければできない、というわけである。また専制君主と違い、自分の意思で戦争を起こすことはできないのであった。
「歴史とは、人類全体が共有する記憶のことだ、と思うんだよ、ユリアン。思いだすのもいやなことがあるだろうけど、無視したり忘れたりしてはいけないのじゃないかな」(第9巻・16頁)
ヤン亡き後、ユリアンの記憶の中に残っていた台詞。過去の愚行を振り返ることから、人間の進歩は始まるのだろう。
「偉人だの英雄だのの伝記を、子供たちに教えるなんて、愚劣なことだ。善良な人間に、異常者をみならえというも同じだからね」(第9巻・80頁)
確かに、これは当たっているかもしれない。偉人や英雄には、その発揮した才能に見合う欠落した部分を併せ持つ傾向があるし、また誰もがそうなれるわけでもない。我々はせいぜい、彼らの欠点や失敗を他山の石とすることぐらいしかできないのかもしれない。
「ことばでは伝わらないものが、たしかにある。だけど、それはことばを使いつくした人だけが言えることだ」
「だから、ことばという奴は、心という海に浮かんだ氷山みたいなものじゃないかな。海面から出ている部分はわずかだけど、それによって、海面下に存在する大きなものを知覚したり感じとったりすることができる」
「ことばをだいじに使いなさい、ユリアン。そうすれば、ただ沈黙しているより、多くのことをより正確に伝えられるのだからね・・・・・・」(第9巻・104頁)
ことばというものは、ある意味、頭に浮かんだイメージを象徴するものかもしれない。そして人間は、ことばを発した人の表情や動作からその意味を理解することから始まり、ついには音声や文字のみで理解するようになる。
「何かを憎悪することのできない人間に、何かを愛することができるはずがない。」(第9巻・106頁)
一般論として正しいと思われる。何かを愛している分だけ、それを失わせた相手を憎悪する。そういう心理作用が人間にはあるのだろう。これに続く本文は次のとおりである。「ユリアンは、ヤン・ウェンリーと彼をめぐる人々と彼らのつくる小宇宙とを、どれほど愛し、貴重なものと感じていたことだろう。ゆえに、それを汚し、砕いた者たちを、ユリアンは憎まずにいられない。」
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