勝って憮然としているヤンの姿を見ると、有利な情報をえて喜びのあまりダンスを踊った人物と、同一人物とは思えない。不敵な戦争の芸術家としての資質と、きまじめで良心的な歴史学の学徒としての資質とが、ヤンの内部では常にせめぎあっており、戦いが終わったあとは、後者の気分が彼を支配するようである。(第2巻・190頁)
直観と理性の戦い、と言い換えてもいいかもしれない。
「思うのは自由だが、言うのは必ずしも自由じゃないのさ」
「なるほど、言論の自由は思想の自由よりテリトリーが狭いというわけですか。自由惑星同盟の自由とは、どちらに由来するのですかな」(第4巻・147頁)
同盟政府がエルウィン・ヨーゼフ二世の亡命と銀河帝国正統政府を承認し、トリューニヒトとレムシャイド伯がそれを同盟全土に宣言した。ヤンが軍人が公の場で政治批判をするべきではないと言ったときの、ヤンとシェーンコップの会話。後のユリアンなどは、言論の自由と思想の自由は同じテリトリーを持っていると考えているふしがある。そのために自分に対する批判も甘受する。結局、自由を標榜する国家でも、上に立つ者の器の大きさによって、自由の範囲が決まってくるということか。
「独裁者を支持するのも民衆なら、反抗して自由と解放を求めるのも民衆です。私はこの国へ亡命して、そろそろ30年にもなろうというのに、未だに解答できない問題があるのです。つまり、民衆の多数が民主主義でなく独裁を望んだとしたら、そのパラドックスをどう整合させるのか、というやつですがね。・・・・・・」(第5巻・54頁)
ヤンはこの問題に対して、結論を出すには早すぎる、と言ったが、あえて結論を出そう。そう望むなら独裁もよかろう。ただし、そうなった場合どのような未来図を描けるか、という警告は必要だ。考えてみるに、独裁とは間接民主制の極致といえなくもないような気がする。
「専制政治だの民主政治だの、来ている服はちがっても、権力者の本質は変わらない。戦争をはじめた責任には口をぬぐって、戦争を終わらせた功績ばかり振りかざす輩だ。自分たち以外の人間を犠牲にしておいて、そら涙を流してみせるのが、奴らのもっとも得意な演技なんだからな」(第6巻・215頁)
アッテンボローと「三月兎亭」にて、監視員がいる中での会話から。自分の身が安泰ならば何でもできる。人間の「卑しさ」を際限なく引き出すのが、「政治家」という職業なのだろうか。
「ヤン・ウェンリーという男には悲劇の英雄などという役柄は似あわない。観客としてはシナリオの変更を要求したいわけですよ。場合によっては力ずくでね」(第6巻・262頁)
シェーンコップの洒落っ気たっぷりの台詞。危機を鮮やかに脱出できる男だからこそ言える台詞であろう。
「こちらは不逞にして兇悪な叛乱部隊だ。統合作戦本部長ロックウェル大将閣下に、誠意と礼節を持って脅迫の文言を申しあげる。心してお聞きあれ」(第6巻・264頁)
これも彼だからこそ言える洒落た台詞。こんな台詞を吐ける男の表情は余裕たっぷり、不敵さを満面に表わしていることだろう。
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