手作りのケーキに、裏を考える必要のない会話。(第1巻・131頁)

 アンネローゼの館にて、ラインハルト、キルヒアイス、そしてアンネローゼの3人。こんな境遇に私もなりたい、と考える人は特に昨今、多いに違いない。言いたいことがいえて、しかもお互いに理解しあっている。学問的に言えば、脳が処理すべき情報の量が格段に違うのだろう。処理する情報が少ないから疲れない。人生のある時期に、こんな幸福な時間があってもよいのではないか。

 吾々は勝った、だが疲れはてた、ひと休みして過去を振り返り、未来に想いをはせてみようではないか、戦いに値する何者が存在するのか――(第1巻・280頁)

 イゼルローンを奪取した同盟軍は、今度は空前の規模で軍を出撃させようとしていた。むしろ、戦う前に脳漿を振り絞って考えねばなるまい、戦うに値する何者が存在するのか――と!戦争とはいわば外交の失敗の産物である。短絡的に相手国との関係が悪化した、だから戦争を始める、――というのでは、余裕が無さすぎる。余裕が無さすぎると言ってわかりにくければ、もしかしたらあるかもしれない関係改善の芽を摘み取ってしまう、と言えばよいだろうか。またそんな調子では、外交官の存在意義もなくなってしまうであろう。

 捕虜交換は両国政府の間でおこなわれるのではない。両国ともに、自己を人類社会における唯一の正統政権と主張し、相手の存在を公認していないのである。したがって外交関係も成立しようがない。
 これが個人レベルの問題であれば、人々はそのかたくなさ、おろかさを笑うであろう。それが国家レベルになると、権威とか尊厳の名のもとに、人々はあらゆる悪徳を容認してしまうのだ。(第2巻・25頁)

 両国とはもちろん、銀河帝国と自由惑星同盟のことである。
 これは少し解説が要るかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず、存在するものは厳然とこの世に存在しているのだ。これほど明白なことにもかかわらず、「国家」と言う単語が使われたとたんにわれわれの感性は鈍磨してしまうようだ。

 ヤンの予測は的中していた。(中略)人心の荒廃が進むとともに、警察官の質が落ちているのだ。(第2巻・29頁)

 たび重なる犯罪が社会問題化していると感じたヤン。その背景には一体何があるのか。詳しくはこの文が載った頁を参照してほしい。

 善行をする者はひとりでやりたがり、愚行をおこなう者は仲間を欲しがる――そういう警句がある。道づれにされる者はたまらない。(第2巻・32〜33頁)

 愚行をおこなう者、とは、ここでは地球教徒のことを指しているが、私たちの周りにもこういった輩がいるのではないだろうか。しかも本人は愚行をおこなっているとは思っていないからたちが悪い。彼らを、善行をするように、とは言わぬまでも、せめて愚行をやめるように導いてやるべきなのだろうが、私たちも人間である。消費する時間とエネルギーに比較して成果は小さいであろうことが容易に想像できる。そして、匙を投げたい気分になるのである。

 なにもかも変わる。時がただ時としての歩みをつづけるうちに、子供は成人になり、成人は老い、取りかえしえないものだけが増えてゆくのだ。(第2巻・38頁)

 士官学校時代を過ごした公園が、ヤンの古い記憶を刺激した。時間が後戻りできないものである以上、われわれは前に向かって進んでいくしかない。そうしていつの日か、昔を振り返って時間の貴重さを再確認することになるのだろうか。

 昨年の一年間に、ヤンは准将から大将まで三階級を駆けのぼった。当人にとってはわずらわしいだけのことだが、他人、ことに地位や階級を絶対視するタイプの人たちにとっては、羨望と嫉妬のまとであるにちがいない。
 こういう種類の人間にかぎって、自分たちと異なる価値判断の存在を認めないから、ヤンの望みが、さっさと現役を引退して、年金で生活しながら、死ぬまでに歴史の本を一冊書くことにある――ということなど、信じるはずもないのだ。(第2巻・103〜104頁)

 このような硬直した思考は一体どこから来るのだろうか。やはり、何かを絶対視する、という所か。しかしそれはわかりきっている答えである。何年もこういう階級社会の中にいると、よほど自分で注意していないと、自然とこういう考えに染まってしまうのだろう。

 人類にとって、この500年はいったいなんだったのか。人類はルドルフを教材としてなにを学んだのか。(第2巻・110頁)

 救国軍事会議の布告は、5世紀前にルドルフの主張した内容と変わりがないものだった。為政者の歴史に対する無知または無理解によって、同じ過ちを繰り返す、という構図である。

 決断をしたくないときにしなくてもよいものなら、人生はバラ色の光に包まれるだろう。(第2巻・118頁)

 ここでの決断とは、ヤンが救国軍事会議と戦うということである。それは同時に、副官の父親と戦うことである。

 軍事的ハードウェアに平和の維持をたよるのは、硬直した軍国主義者の悪夢の産物でしかなく、思考のレベルで言えば、幼児向きのアクション・ドラマと異ならない。ある日、突然、宇宙の彼方から醜悪で好戦的なエイリアンが理由も原因もなく侵略してきたので、平和と正義を愛する人類はやむをえず抵抗する。そのためには強大な兵器や施設が必要だ――というわけだ。(第2巻・273頁)

 救国軍事会議のクーデターをほぼ鎮圧したヤンは、ハイネセンを防衛する軍事衛星「アルテミスの首飾り」を破壊することを決定する。

 権力はそれを獲得した手段によってではなく、それをいかに行使したかによって正当化される――。(第2巻・338頁)

 キルヒアイスが殺されるという重大な危機に直面したラインハルト。動こうとしない彼に対してなすところを知らず、ただ不毛な議論でいたずらに時間を空費する提督たち。彼らが動くきっかけとなった、この一見野蛮に見える考えを生み出す原因が、彼らからもっとも忌み嫌われている男、オーベルシュタインから出されたというのは、皮肉というべきか、バランスが取れているというべきか。

 イゼルローン要塞と艦隊の持つ雰囲気は、疑いもなく同盟全軍の中で最上のものであったが、それでもこの種のの感情を一掃できないところに、軍隊にかぎらず、人間の集団が持つ一種のやりきれなさがあるのかもしれなかった。(第3巻・13〜14頁)

 この種の感情、とは、できの悪いものもできの良すぎる者もにらまれる、ということだが、こういった感情を払拭した組織というのは存在しえないのであろうか。自分の目標に向かって邁進している人ならば他人を気にかけている余裕などないから、こういった感情と無縁でいられるだろう。目標なき人間、あるいは目標を見つけられない人間が、それだけこの世には多いということか。

 このようなとき、とるべき態度を決するのは知性や教養とはまた別のものである。ミッターマイヤーは幸福なのであり、この際はそれが引け目になるのだった。(第3巻・73頁)

 ロイエンタールの女癖の悪さの原因を知ったミッターマイヤー。正論をぶつだけではさしあたり解決しない場面では、理解を求めるのではなく説得するしかないのであろうか。

 ヤン自身の思いは別として、その資質は乱世向き、非常時向きにできているのであろう。平和な時代であれば、無名で終わるはずの青年――せいぜい二流の歴史家として一部の人々に知られるていどであろう――が、巨大な恒星間国家のVIPたりえたのは、時代がその才能を必要としたからにほかならない。
 軍事的才能というものは、人間の能力のなかでも、きわめて特異な部類に属する。時代や状況によっては、社会にとってまったく無用な存在となる。平和な時代に、巨大な才能を発揮させることなく逝った者もいるであろう。それは学者や芸術家のように、死後、埋もれていた作品が世に出るといった類のものではない。可能性が評価されることもない。結果だけがすべてなのである。(第3巻・89頁)

 その人の創造性が十分発揮され、しかもそれが時代の要求とうまく合致した――天才とは、そういうものなのだろう。

 金銭で買えないものはたしかに存在するが、買えるものはその価値に応じて買っておくべきであり、買ったものは利用すべきであった。(第3巻・119頁)

 フェザーン人の道徳律、と言いたいところだが、これはそうではなく、処世術というべきものである。それはともかく、我々も多少は見習うべきところかもしれない。価値あるものにふさわしい金額を払う。当たり前のことである。しかしこの当たり前のことを現代の我々はよく忘れてしまう。ひたすら安さだけを求める、というのは良いことなのだろうか?安さの陰に安全性などを置き去りにして、結局「安物買いの銭失い」を極めてはいないだろうか?

 国家というものに幻想を抱く人々は、国家が優秀な、あるいは知的・道徳的に偉大な人物によって指導されていると信じているであろう。ところが、実際にはそうでもないのだ。国家権力の中枢部に位置する人間が、一般市民より思考力において幼稚であり、判断力において不健全であり、道徳水準において劣悪であることは、いくらでも例がある。(第3巻・174〜175頁)

 そんな馬鹿な、という反応は、残念ながら出てこない。ああなるほど、やっぱりそうか、となるわけだが、なぜなのだろうか。権力者となる人間がそうなるというより、民主政に生きる我々は、そんな人間をなぜ選び続けているのか、と問うた方がよさそうだ。

 何よりもヤンにとって忌避すべきことは、アラルコンに民間人や捕虜殺害の嫌疑が一度ならずかけられている点で、幾度かの簡易軍法会議ではいずれも証拠不十分、またはその事実なし、として無罪になっているが、これはいまわしい「仲間同士のかばいあい」によるものではないか、と、ヤンは疑っている。(第3巻・285頁)

 このような話もまた、軍隊に限ったことではあるまい。アラルコンのような人間がそれなりの「居場所」を確保してしまうのはなぜなのか。

 この世のことは生者だけで解決しなくてはならない。疲れるし、めんどうな、しかも気の進まないことではあるが・・・・・・。(第3巻・299頁)

 査問会から解放され、イゼルローンへ向かう途中でのヤンのひとりごとにも思えるが、そのまま一般化しても差し支えないであろう。こういった現実を直視するところから、人は前進できるのだ。

 忠誠心というものは、いわば鏡に映った自己陶酔であるから、「鏡」の役目をはたす主君には、美しい像を映し出してほしいというのが、宮仕えする人間の願望であろう。(第5巻・37ページ)

 「銀河帝国正統政府」の面々、ラインハルトの侵攻を前にしてなすところを知らず。エルウィン・ヨーゼフというかわいげのない子供は、忠誠心を起こす力を持たず。

 本部の建物にせよ、財政にせよ、全容を信徒に開放している宗教団体など、過去にも現在にも存在しない。(第6巻・232〜233頁)

 地球教の本部に入ったユリアンたち。案内書から資料室を探したが、見当たらなかった。現実の宗教団体が秘密を持っているということにも、それぞれの理由があるのだろうが、情報を開示している度合いに応じて、その宗教の「本物度」がわかるのだろう。

「戦略とは状況をつくる技術。戦術とは状況を利用する技術」(第6巻・255頁)

「戦略」と「戦術」の定義。もっと詳しく言えば、「戦略とは相手よりも有利な状況をつくる技術。戦術とはできあがった状況を利用する技術」

 国家と権力機構の性を否定するところから、民主政治は出発したのではなかったか。自らの非を非とする自省と自浄の意欲こそが、民主政治の長所ではないのだろうか。(第7巻・96頁)

 ヤンを害しようとしたレベロと同盟政府。その行為が、レンネンカンプ高等弁務官の死と帝国の再侵攻を招いた。どこかで誤りを認めれば、この最悪の事態を防げたのだろう。

 ヤン・ウェンリーは国家元首であるヨブ・トリューニヒトとその一党をしばしば辛辣に批判したが、それを理由として法的に処罰されたことはない。嫌がらせを受けたことは一再ではないが、そのたびに何か別の理由を見つける必要が、権力者にはあった。それはひとえに、民主共和政治の――言論の自由のおかげである。政治上の建前というものは尊重されるべきであろう。それは権力者の暴虐を阻止する最大の武器であり、弱者の甲冑であるのだから。(第8巻・41頁)

「言論の自由」は民主主義の建前――本来ならば理念というべきだが、完全に実現されたわけではないので――である。たとえ建前であっても、それすらない社会――専制政治――よりはましといえるだろう。

 人間は、自分より欲望の強い人間を理解することはできても、自分より欲望の弱い人間を理解することは至難であるから。(第9巻・76頁)

「夏の終わりのバラ」の中であるが、ここでは一般論として。欲望の弱さを、それ自身で理解することはせず、他に何か欲望が弱い理由があるはずだと探して回るのは、われわれの「悪い癖」なのだろうか。

 君主の私生活が国家と歴史に正なり負なりの影響をおよぼすのが、専制政治というものであった。(第9巻・80頁)

 これも「夏の終わりのバラ」の中から、最後の部分である。一組の夫婦が誕生することが国家的な「事件」となるわけで、具体的には本文中のとおりである。

 ある集団のなかに、異種の思考法を持つ者の存在は不可欠である。でなければ独善ないし妄信の集団と化す恐れがあるのだ。(第10巻・118頁)

 ここでは、ある集団とはラインハルトを頂点とした帝国軍、異種の思考法を持つ者とはオーベルシュタインである。きらめく人材を揃えた帝国軍のような組織といえども、この危険から完全には免れえないのだ。

 ヒルダにとって、ラインハルトの不在は残念であったが、心づよさという点では、アンネローゼがいてくれるほうが勝った。ラインハルトが側にいたところで役に立つはずもないのである。彼の才幹は、おなじ宇宙の異なる世界であってこそ、余人の追随を許さぬものであった。(第10巻・187頁)

 出産間近のヒルダのもとを、アンネローゼが訪れた。「柊館炎上事件」が起こる直前である。人はいつも、愛するものの力になれるとは限らない。

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