ここでは、公益を無視して個人の利益を追求し続けた結果個人の利益それ自体を失ってしまうという誤謬について論じる。
初期条件
A国とB国が存在する。A国は価格1ドルのX財を生産し、B国は価格1円のY財を生産する。A国の通貨はドル、B国の通貨は円である。為替レートの初期値は1ドル=100円である。また公定歩合および外国為替の交換手数料は0である。この世界における通貨は全て信用貨幣である。
投機家OはB国中央銀行から10000円を借り、手持ちの10000円をドルに交換した結果100ドルを得る。他の投機家も追随し、その結果為替レートが1ドル=200円に上がる。Oはすぐに持ち金を円に交換し20000円を得る。その金をさらに交換するをいうサイクルを繰り返す。その結果為替レートは1ドル=1兆円となり、Oは10兆円を得る。B国企業はZ財を作るために必要なX財を輸入したいが価格が1兆円となったX財を輸入できず倒産し、Z財の作り手がいなくなりZ財は市場から消滅する。この時点で10兆円を持っているOはZ財を欲している(Z財の需要がある)が、既にZ財は市場から消滅しているため手に入れることが出来ない。
こうして市場から財は消滅し、交換不能となった貨幣だけが残る。交換価値を失った貨幣は単なる物体へと還元され、この経済圏からは財と貨幣が消滅する。
ここから導かれる準定理として、貨幣を蓄蔵できる量は有限である。
参考文献
佐和隆光『文化としての技術』
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