大塚久雄「社会科学の方法」『社会科学の方法』
2頁 〔ニ〕マルクス経済学のばあい
→無計画な社会の生産力は自然現象と同じと見做せる。故に自然科学と同じ方法で社会科学が可能となる。
3頁 〔三〕ウェーバー社会学のばあい
a 当然後者が優位を占める
→「後者」とはある既知の法則を利用して個々の現象を理解すること。
b 個性的な自然現象よりも、かえって原理的に非合理性が少なく
→これはちょっと言い過ぎであろう。同じというに止めるべきである。
c 理念ではなく、利害である。
→これについては後述する。
13頁 社会全体の物質的新陳代謝、つまり経済
→経済の定義。見事な定義といっていい。
14頁 個々人の営みはまったく私的なものとして行なわれ、したがって、その営みが現実に社会の必要を満たすものであるかどうかということ、つまりその営みの公的な機能は、結局、需要と供給が押し合いへしあいしている市場において、いいかえれば、そうした交換過程のただ中ではじめて事後的に実証されることになるわけなのです。
→「営み」を経済学的に分かりやすく言い換えると「産出」になろう。産出した財はそのままでは使用価値(効用)は持ち得ても交換価値を持ち得るか分からない。市場で需要に基づき購入(貨幣と交換)されて初めて交換価値があったことが分かる。
15頁 計画的ではなくて、自然成長的な分業である場合には――マルクスによると、これは、私有財産制度という基盤の上で
→自然成長的な分業は私有財産制度の上でのみ成り立つ、と読める。
21〜26頁
→経済学と自然科学の方法の違い
重要な箇所で「人間」が出てくる。
もうちょっと正確にその意味するところを書くならば、経済学でも概ね自然科学の方法が使えるが、使えないところはさらに詳細な分析が必要であって、そこでは自然科学の「論理」とは違った論理を使う必要が出てくる、ということであろう。
29頁 「観念においては、諸個人はブルジョアジーの支配のもとでは以前よりも自由である。なぜなら、彼らにとっては彼らの生活条件は偶然的だからである。しかし、現実においては、もちろん彼らはより不自由である。なぜなら、より以上に物的強力のもとに従属させられているからである」
→大変分かりにくい表現である。もう少し噛み砕いて書くと、「労働者は形の上では封建時代の農奴などのような不自由はないが、実際には経済的制約で不自由である」ということであろう。
32頁付近
→人間において生きていく上で必要なもの(経済)が行動規則として常にあり、そこに追加的な形で諸個人の行為が、自由な行為が問題となる(心理学ほか)
43頁
→個々人の格律=人間の行動原則を明らかにすることによって、行動=結果を理解することができる。原因―結果=格律―行動
因果関連において、格律と周辺諸条件が原因であり、行動は結果である。
48頁 法則=関係概念
→法則とはいわば関数のように、一方の要素が決まれば他方の要素も決まるといった「複数の要素関係を表したもの」という意味であろう。
57頁 社会科学のばあいには、対象が生きた人間の営みでありますから、因果性の範疇を用いながら、しかしわれわれはどうしても質を、量よりはいっそう質を問題にしなければならなくなる。
→これは例解を示さないと真であるとは言い切れない。それでも経済学ではやはり量の追究が優勢であると感じるのだが。
59頁 カントの用語で説明するならば、
目的論的関連→超越論的世界における
因果的関連 →感性界(現象界)における
ということになろう。
61〜63頁 重要!
→経済学においてどういう仕方で理解し分析すれば良いかについて
66頁 「固有な法則性」に従って独自な動きをする
→経済的制約から自由になる――「お金ではない」
67頁 他の文化諸領域における社会現象がそうした経済的利害状況の制約から相対的に独立して、どういう「固有な法則性」をもって独自な動きを示すのか、またそれは逆に、経済の動きをどのように制約することになるのか
→上部構造・下部構造という捉え方でなく、互いに影響を与え合う関係として
あるいはこう言って良ければ、一方が他方を縛る関係である。
70〜71頁
→貨幣の必然性を述べているが、これだけでは分からない。他の文献を参照しなければならない。
77頁 歴史の曙にさかのぼればさかのぼるほど、そういうさまざまな文化諸領域における利害状況をすべて包み込んで現われてくるのが、日常性の本来の場所としての経済的利害状況だと考えているようであります。
→歴史を遡ると経済的利害状況のウェイトが大きくなる。
82〜83頁 →人間の行為を常に支配するのは経済である。しかし理念はしばしばその行動の方向性を変える。
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